第五百九話 「決意(クエリ)とは、分からないことを寝て流す行為ではなく、突きつけられた現実から逃げず、初めて一人で考えてみると決める現象のことである」という話
段々終わりが見えてきたなー
二月下旬。
深夜。
佐伯家の自室。
部屋の明かりを消して、布団へ潜った。
いつもなら、それで終わりだった。
警察学校が始まってからというもの、一日はだいたい同じように終わる。
走る。
怒鳴られる。
食べる。
また動く。
覚える。
間違える。
直す。
風呂に入る。
飯を食う。
布団へ入る。
そして、寝る。
それだけだ。
身体は毎日きちんと疲れている。
だから、目を閉じれば眠れる。
眠れない方がおかしい。
そのはずだった。
けれど、その夜だけは違った。
拓海は布団の中で何度も寝返りを打った。
右を向く。
左を向く。
天井を見る。
目を閉じる。
また開ける。
眠気は来ない。
代わりに、武道場の夕方の光だけが何度も浮かんだ。
畳。
冬の匂い。
誰もいなくなった静かな空間。
松本龍平の声。
『あなたは、そこまで考えて今日の行動を選びましたか』
その言葉が、耳の奥に残っている。
拓海は眉を寄せた。
「……。」
俺は助けた。
それは間違っていない。
目の前で同期が倒れそうになっていた。
痛そうな声が聞こえた。
身体が動いた。
放っておけなかった。
それだけだ。
それだけだった。
でも。
それだけでは足りないのかもしれない。
その考えが、胸の奥へ重く沈んでいた。
「……なんで、あんな顔したんだよ。」
小さく呟く。
龍平は怒鳴らなかった。
感情をぶつけてきたわけでもない。
ただ、静かに問いを置いていった。
目の前の一人を助けた。
その間に、担当していた犯人が逃げた。
逃げた犯人が人を襲った。
死者が出た。
”その時、お前は遺族へ何と説明するのか”。
拓海は答えられなかった。
今も答えられない。
「……。」
困っている人がいたら助ける。
そんなもの、考えるまでもないと思っていた。
誰かが倒れそうなら支える。
怪我をしそうなら止める。
泣いているなら声をかける。
自分にできることがあるなら、動く。
それが普通だった。
正しいとか、立派だとか。
そんなことを考えたこともない。
”ただ、そうしてきた”。
けれど。
警察官は、それだけでは駄目なのかもしれない。
助ける相手を選ぶ。
助ける順番を考える。
目の前の一人ではなく、その先にいる誰かを想像する。
班で動く。
組織で動く。
命令に従う。
その中で、何を優先するのかを決める。
そんなことを、自分は本当に考えてきただろうか。
「……考えてねぇな。」
答えは簡単だった。
考えていなかった。
考える前に動いていた。
それで何とかなると思っていた。
今までは、何とかなっていた。
いや。
本当に何とかなっていたのか。
拓海は腕を布団の外へ出し、自分の手のひらを見た。
大きな手だった。
ラグビーで鍛えた身体。
体力。
力。
走れる脚。
人を支えられる腕。
それは、自分の武器だと思っていた。
困っている人がいるなら、この手を伸ばせばいい。
そう思っていた。
でも。
この手を伸ばしたせいで。
別の誰かを取りこぼすことがある。
その可能性を、初めて突きつけられた。
「……重てぇな。」
ぽつりと漏れる。
”誰かを助ける”。
その言葉は、ずっと明るいものだと思っていた。
けれど、今日初めて、その裏側にある重さを見た気がした。
全員を助けられるわけじゃない。
その場にいる全員へ同時に手を伸ばせるわけじゃない。
一人を助けるために、誰かを見捨てることがある。
そんな選択をする仕事なのか。
警察官というのは。
「……親父も、そうだったのかな。」
父の背中を思い出す。
佐伯和也。
拓海にとって、父は昔から刑事だった。
家にいる時は普通の父親だった。
飯を食い、新聞を読み、時々母に叱られ、拓海に小言を言う。
けれど、仕事へ向かう背中はいつも少し違っていた。
子供の頃は、その違いをうまく言葉にできなかった。
ただ、父は誰かを助ける仕事をしているのだと思っていた。
”悪い奴を捕まえて、困っている人を助ける”。
単純にそう思っていた。
でも。
父もきっと、全部は助けられなかった。
どれだけ走っても。
どれだけ考えても。
どれだけ手を尽くしても。
間に合わなかった人がいたのかもしれない。
助ける順番を選ばなければならなかった日が、あったのかもしれない。
拓海は目を閉じた。
龍平の声が、また蘇る。
―あなたは優しい。
―でも。
―その優しさが、別の誰かを死なせることもあります。
胸の奥が鈍く痛んだ。
「……優しいって、何だよ。」
自分では、自分を優しいと思ったことはない。
困っている人がいたから助けた。
それだけだ。
でも龍平は、それを怖いと言った。
嫌いだと言った。
「だから、あなたは嫌いなんです。」
あの言葉は、拓海の胸に深く刺さっている。
ただ嫌われたことが痛いわけではない。
嫌いだと言われた理由が分からないことが、苦しかった。
いや。
少しだけ分かり始めているから、苦しいのかもしれない。
龍平は、自分が助けたことそのものを否定したわけではない。
人を助けるなと言ったわけでもない。
ただ、その先を考えろと言った。
目の前だけを見るなと言った。
自分の行動で空く穴を見ろと言った。
そこに立つ誰かを見ろと言った。
それができない自分が嫌いだと、そう言った。
拓海は大きく息を吐いた。
「……分かんねぇ。」
分からない。
龍平の生きてきた世界も。
龍平が何を諦めてきたのかも。
なぜ、あれほど静かな声で「嫌い」と言えたのかも。
全部は分からない。
たぶん、すぐには分からない。
それでも。
分からないで終わらせていい話ではない。
菜摘の声が浮かぶ。
―あなただって、全部説明しないことあるでしょ。
―相手にも、相手の事情があるんじゃないの?
”事情”。
その言葉の意味も、まだ全部は分かっていない。
けれど、今なら少しだけ分かる。
”人は、見えているものだけで動いているわけではない”。
言わないことがある。
言えないことがある。
話したくないことがある。
それを知らないまま、踏み込めば。
たとえ悪気がなくても、傷をつけることがある。
「……。」
拓海は布団の中で膝を抱えるように丸くなった。
嫌なことを考えるのは苦手だ。
分からないことを考え続けるのも苦手だ。
今までなら、途中で投げ出していた。
分からん。
寝る。
明日考える。
そうやって、いつも通りの自分へ戻っていた。
でも。
今夜は違った。
逃げてはいけない気がした。
ここで考えることをやめたら、自分はまた同じことをする。
目の前の一人だけを見て。
その先を見ないまま動く。
そしていつか。
本当に誰かを取りこぼす。
「……それは。」
言葉が喉で止まる。
嫌だ。
それだけは嫌だ。
人を助けたい。
その気持ちは変わらない。
変えられない。
たぶん、死ぬまで変わらない。
でも。
助けたいだけでは足りないのなら。
どう助けるのかを考えなければならない。
誰を助けるのか。
どの順番で助けるのか。
自分が動いた時、誰がその穴を埋めるのか。
そこまで考えなければいけない。
それが警察官になるということなら。
自分はまだ、そこへ辿り着いていない。
「……俺は。」
拓海は天井を見上げた。
暗闇の中、見慣れた部屋の輪郭だけがぼんやり浮かんでいる。
「まだ、本物の警察官じゃねぇんだな。」
声にして、少しだけ分かった。
警察学校に入った。
制服を着た。
訓練を受けた。
怒鳴られた。
走った。
覚えた。
それでも、まだ足りない。
警察官になるということは、たぶん、もっと重い。
人を助けるということは、たぶん、もっと難しい。
拓海は自分の手を握った。
「……ちゃんと考えよう。」
小さな声だった。
誰に聞かせるためでもない。
自分に言い聞かせるための声だった。
「警察官って何なのか。」
「助けるって何なのか。」
「松本が、何であんな顔をしたのか。」
答えは出ない。
今夜出るはずもない。
龍平が正しいのか。
自分が間違っているのか。
そういう簡単な話でもない気がした。
でも。
それでも。
「……分かんねぇけど。」
拓海は目を閉じた。
眠気はまだ来ない。
けれど、さっきまでとは少し違っていた。
分からないから、終わりではない。
分からないから、考える。
それだけは決めた。
「逃げずに、考えてみるか。」
真夜中の部屋に、その声だけが小さく落ちた。
いつか。
ずっと先の未来。
自分一人の手では届かない場所に、大切な家族が立たされる日が来る。
その時、拓海は思い知ることになる。
助けたいという気持ちだけでは、守れないものがある。
自分が動くためには、誰かへ託さなければならないものがある。
信じて預けることもまた、守るための選択なのだと。
その選択へ至る道は、まだ遠い。
けれど。
その最初の小さな問いは、この夜に生まれた。
目の前の一人を助けること。
その先にいる誰かを守ること。
そして、自分一人では届かない場所へ、大切なものを託すこと。
その全てが、まだ答えにならないまま、拓海の胸の奥で静かに結び付き始めていた。
答えは出なかった。
それでも。
佐伯拓海は初めて、自分から考えることを選んだ。
逃げずに。
分からないまま。
それでも、考え続けることを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




