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第五百八話 「衝突(コード)とは、放っておけない善人と、すべてを一人で背負ってきた秀才が、刑事という現場で初めて真正面からぶつかる現象のことである」という話

どっちも正しいけど相容れないってやつね

二月。

警視庁警察学校。


冬の朝は、相変わらず容赦がなかった。

吐く息は白く、グラウンドにはまだ薄く霜が残っている。


教官の号令一つで、その静寂はあっという間に吹き飛んだ。


「走れ!」


一斉に同期たちが駆け出す。

卒業まで、残り一か月ほど。


教場の空気は少しずつ変わり始めていた。

入校した頃のようなぎこちなさはない。


誰が真面目で。

誰が要領が良くて。

誰が不器用なのか。

誰がうるさいのか。

半年も一緒にいれば、嫌でも分かる。


「佐伯! もっと足上げろ!」


「はいっ!」


怒鳴られながらも返事だけはやたら良い。


その十分後。


「死ぬ……。」


「まだ始まったばっかだぞ。」


「無理だバカちんが……。」


同期たちが苦笑する。


「お前、五分前まで元気だったろ。」


「さっきまでは朝だった。」


「今も朝だ。」


「違う。」


拓海は真顔で首を横に振った。


「今は地獄。」


笑いが起こる。


そんなやり取りも、もう珍しくない。


半年という時間は、それなりに人との距離を変える。


……もっとも。


一人だけ。


最初から最後まで変わらなかった男もいた。


”松本龍平”。


術科訓練が終わると、一人で胴着を整え、汗を拭き、静かに次の訓練の準備を始める。


誰かと騒ぐこともない。

誰かに話しかけることもない。


拓海とも、相変わらず必要最低限しか言葉を交わさなかった。

拓海も以前ほど無遠慮には話しかけなくなった。


年末。


菜摘に言われた言葉が、まだどこか胸の奥へ残っている。


『相手には相手の事情がある』


意味はまだ全部分からない。


それでも。

以前のように何でも聞けばいいとは思わなくなっていた。


「……。」


拓海は少しだけ龍平を見た。

龍平は気付かない。


いや。

気付いていても反応しない。


その距離は、年が明けても変わらなかった。


午前最後の訓練。


今日は逮捕術だった。


実戦形式。

二人一組。

教官が名簿へ目を落とす。


「次。」


一枚めくる。


「松本。」


龍平が返事をする。


「佐伯。」


「はい。」


教官は顔を上げた。


「組め。」


「……。」


「……。」


ほんの一瞬。


二人の間へ沈黙が落ちる。


周囲の同期たちも、思わず目を向けた。


「よりによって。」


誰かが小さく呟く。


「終わったな。」


「佐伯、大丈夫か。」


「松本も災難だな。」


そんな声が聞こえる。


拓海は苦笑した。


「何で俺なんだよ。」


「知らん。」


「先生の嫌がらせじゃね?」


「聞こえているぞ、佐伯。」


「すみません。」


教官は表情一つ変えない。


「現場では、相手は選べん。」


「嫌いだから組めません、は通用しない。」


「……はい。」


二人は向き合う。


礼。


構え。


冬の空気が張り詰める。


教官の右手が上がった。


「始め!」


龍平が動く。

無駄がない。

半年間積み重ねてきた基本が、そのまま形になっている。


拓海も正面から受ける。

こちらは力強い。

ラグビーで鍛えた下半身が、多少崩されても簡単には倒れない。


互いに真面目だった。

だからこそ。


一歩も譲らない。


一瞬。

龍平が内股へ入る。


拓海が身体を返す。


踏み込み。


体勢。

重心。


そのすべてが、ほんの僅かだけ噛み合わなかった。


龍平の足元が滑る。


「!」


その瞬間だった。


拓海の視界から。

龍平の姿が消えた。


”転ぶ”


そう判断した。


考えるより先に身体が動く。


「危ねぇ!」


龍平の肩を掴む。


そのまま身体を引き寄せ、自分が下敷きになるように受け止めた。


鈍い音。


二人同時に畳へ転がる。


教場が静まり返った。


誰も動かない。


龍平だけが拓海の腕を静かに振り払った。


「……余計なことをするな。」


低い声だった。


拓海は起き上がりながら頭を掻く。


「いや。」


「危なかっただろ。」


「……。」


龍平は何も答えない。


教官だけが二人を見ていた。


何も言わない。

ただ

その灰色の視線だけが、二人の間に生まれた何かを静かに見つめていた。


********


午前の訓練は、そのまま続いた。


教官は二人を一瞥しただけで何も言わない。


「次。」


「班対抗、制圧訓練。」


「実戦を想定する。」


「現場では個人プレーは許されん。」


「班全員で動け。」


短く、それだけだった。

全員が持ち場へ散る。


拓海も龍平も同じ班だった。


「開始!」


一斉に動き出す。


決められたルート。

決められた制圧。

誰か一人でも遅れれば、全体が崩れる。


そんな訓練だった。


拓海も、今度は余計なことはしない。


そう思っていた。

ほんの数十秒後だった。


隣の班。


一人の同期が足を滑らせた。


受け身が遅れる。

体勢が完全に崩れた。


「っ……!」


痛そうな声が聞こえる。


その瞬間、

拓海の身体が、また考えるより先に動いていた。


「おい!」


持ち場を飛び出す。

倒れた同期へ駆け寄る。

腕を掴み、身体を起こす。


「立てるか!?」


「だ、大丈夫……!」


同期は頷いた。


それで十分だった。

拓海は安心して、自分の持ち場へ戻ろうとした。


その時だった。

教官の怒声が、武道場いっぱいに響いた。


「佐伯!!」


空気が凍る。

拓海の足が止まる。


「貴様、自分の持ち場はどうした。」


「いや……転んでたんで。」


「聞いていない。」


教官の声は低かった。


「持ち場はどうした。」


拓海は答えられない。


教官は班全体を見渡した。


「現場を止めろ。」


訓練終了。


静まり返る武道場。

教官は時計を見る。


「タイムオーバー。」


「理由。」


誰も答えない。


「佐伯。」


「はい。」


「貴様が持ち場を離れた。」


「その穴を埋めるため、班全体の動線が乱れた。」


「結果。」


「制圧完了まで二十七秒の遅延。」


教官は一歩近付いた。


「現場なら。」


「犯人は逃走している。」


「……。」


「全員。」


「腕立て伏せ。」


「四十。」


誰も文句を言わない。

同期たちは黙って床へ手をつく。

拓海も同じように並んだ。


「始め。」


一回。


二回。


三回。


静かな号令だけが響く。

拓海は途中、小さく呟いた。


「悪ぃ。」


誰へ向けた言葉か。


班全員へだった。

誰も返事はしない。


ただ、一人だけ。

龍平は腕立てを続けながら、何も言わず前だけを見ていた。


夕方。


訓練が終わる。


武道場にはもう誰もいない。

窓から差し込む夕日だけが、畳を赤く染めていた。

拓海は胴着を畳みながら、何度も頭を掻いている。


「あー……。」


ため息。


「やっちまったなぁ。」


独り言だった。

その時、

出口へ向かう龍平の背中が目に入る。


「松本。」


龍平は止まる。


振り返らない。


拓海は歩み寄った。


「今日さ。」


「悪かった。」


龍平は黙ったままだ。


「班のみんなにも悪かった。」


「でもさ。」


少し笑う。

困ったような笑いだった。


「あいつ、本当に転んでたじゃん。」


「放っとけねぇだろ。」


沈黙。

長い沈黙だった。


やがて龍平がゆっくり振り返る。

その表情には怒りはない。

呆れもない。

ただ、どこまでも静かだった。


「佐伯さん。」


「はい。」


「一つだけ。」


「聞いてもいいですか。」


「おう。」


龍平はまっすぐ拓海を見る。


「あなたは今日。」


「一人助けました。」


「そうだな。」


「では。」


「その間に、あなたが担当していた犯人が逃走しました。」


拓海の笑顔が少し消える。


龍平は続けた。


「逃げた犯人が。」


「商店街へ入りました。」


「刃物を持っています。」


「逃げる途中で一般人を襲いました。」


「数人の死者が出ました。」


武道場が静まり返る。


「その時。」


「あなたは遺族へ、何と説明しますか。」


拓海は答えなかった。

答えられなかった。


龍平は責めるような口調ではなかった。


ただ。

警察官として、一つの問いを投げているだけだった。


「あなたは。」


「目の前の一人を助けました。」


「立派なことです。」


「ですが。」


「警察官は。」


「一人だけを助ける仕事ではありません。」


「現場では。」


「優先順位があります。」


「班で動きます。」


「組織で動きます。」


「命令があります。」


「それを崩した瞬間。」


「誰かが穴を埋めます。」


「埋められなければ。」


「被害は広がります。」


拓海は黙って聞いていた。


龍平は一歩だけ近付く。


「佐伯さん。」


「あなたは。」


「そこまで考えて、今日の行動を選びましたか。」


答えは。


返ってこなかった。


*******


武道場には、夕日だけが残っていた。


窓から差し込む橙色の光が畳を長く照らし、誰もいなくなった訓練場は、

昼間とは別の場所のように静まり返っている。


龍平の問いは、その静寂のなかへ落ちたまま動かなかった。


『佐伯さん。』


『あなたは、そこまで考えて今日の行動を選びましたか。』


拓海は答えられなかった。

考えたことがない。


……いや。


考えようとしたことがなかった。

目の前で困っている人がいる。

だから助ける。


それだけだった。

それ以上でも、それ以下でもない。


龍平はそんな拓海を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……やっぱり。」


その一言だけだった。

拓海は慌てて口を開く。


「いや、でもさ。」


「もし俺が助けなかったら、あいつ怪我してたかもしれねぇじゃん。」


「だから――」


「そうでしょう。」


龍平は遮らなかった。


否定もしなかった。


「だから助けた。」


「あなたらしい判断です。」


その声には皮肉も怒りもない。

だからこそ、余計に冷たかった。


「でも。」


龍平は静かに続ける。


「現場では。」


「助けたい人全員を助けられるわけではありません。」


「私たちは。」


「その場で優先順位を選ばなければならない。」


「一人を助けることで。」


「別の誰かが死ぬこともあります。」


「それが警察です。」


拓海は拳を握った。


頭では分かる。

言っている意味も理解できる。


でも。

胸のどこかが納得しなかった。


「……でも。」


やっと出た言葉は、それだけだった。


「目の前で困ってたんだぞ。」


「見て見ぬふりなんか。」


「俺にはできねぇよ。」


龍平は少しだけ目を伏せた。


「でしょうね。」


短く答える。


「あなたは、そういう人です。」


一拍。

冬の空気だけが二人の間を流れる。


「だから。」


龍平はゆっくり顔を上げた。


「あなたは嫌いなんです。」


拓海は何も言えなかった。

龍平は初めて、真正面から拓海を見据えた。


「あなたは。」


「困っている人を放っておけない。」


「誰かを助ける。」


「それ自体は立派です。」


「でも。」


「あなたは、その先を見ない。」


「助けた先で。」


「誰がその穴を埋めるのか。」


「誰が犠牲になるのか。」


「その善意が、別の誰かを追い詰めることがある。」


「そこまで考えない。」


龍平の声は最後まで静かだった。


怒鳴らない。

責め立てない。

ただ事実を並べる。


「私には。」


「それが、一番怖い。」


拓海は黙ったまま立っていた。

龍平は視線を外す。


「あなたは悪い人じゃありません。」


「むしろ。」


「いい人なんでしょう。」


「だから余計に。」


「嫌いなんです。」


拓海は苦笑いのようなものを浮かべた。


「……そこまで言われたの初めてだ。」


龍平は何も答えない。

畳の上へ視線を落としたまま、小さく呟いた。


「あなたは。」


「何も知らない。」


「困っている人を助ければ、それで終わる世界で生きてこられた。」


「私は違います。」


「誰も助けてくれない前提で生きてきました。」


「だから。」


「誰かが助けてくれることを前提にした考え方が。」


「どうしても好きになれません。」


それ以上、自分のことは語らなかった。


祖母のことも。

働いていたことも。

役所へ通った日々も。

何一つ話さない。


それでも。

その短い言葉だけで十分だった。


拓海はようやく分かった。


いや。


分からないことだけが分かった。


”目の前の男は、自分とはまるで違う世界を生きてきた”。


その事実だけが、胸へ重く落ちる。


龍平は鞄を肩へ掛けた。


「失礼します。」


そのまま歩き出す。


拓海は呼び止めない。

呼び止めても、何を言えばいいのか分からなかった。


武道場の扉が静かに閉まる。

夕日だけが残る。


拓海はその場へ立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。


帰り道。

冬の空は、もう暗くなり始めていた。


駅へ向かう人の流れ。

信号待ち。

電車の音。

いつもの東京だった。


それなのに。

今日は何も頭へ入ってこない。


龍平の言葉だけが、何度も繰り返される。


『その先を考えましたか。』


『誰が犠牲になりますか。』


『私は、そういう警察官が嫌いです。』


拓海はポケットへ手を突っ込んだ。


「……分かんねぇよ。」


ぽつりと漏れる。


「困ってる奴がいたら。」


「助けるだろ。」


「普通。」


そう呟いてみても、胸の中の重さは消えなかった。


遠くイギリス、ウィルトシャー。


深夜。

ハミルトンホール。


ジョージから送られてきた報告書を読み終えたエドワードは、静かに目を閉じた。


「……そうか。」


その一言だけだった。

ジョージが画面の向こうで尋ねる。


「ハミルトン様。」


「松本くんの言うことは、正しいと思いますか?」


長い沈黙。

やがてエドワードは、小さく笑った。


「正しい。」


「では、サエキは。」


「……彼も正しい。」


ジョージは苦笑する。


「それじゃ答えになってないよ。」


「答えなどないさ。」


エドワードは窓の外へ視線を向けた。


「警察官として見れば、松本くんが正しい。」


「だが。」


「タクミは、そういう男だからね。」


「困っている人間を見捨てられない。」


「だから私は。」


一度だけ目を伏せる。


「そんな彼を、ずっと見てきた。」


ハミルトンホールの夜は静かだった。


極東では、一人の青年が初めて自分の善意を疑い。

その隣では、もう一人の青年が最後までその善意を受け入れなかった。


二人の距離は、最後まで縮まらない。


けれど。

この日の衝突だけは。

互いの胸のどこかへ、決して消えないまま刻まれていくのだった。



ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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