第五百七話 「文学(コード)とは、作者の伝えたい思想を読み解く学問ではなく、大型犬が全作品を体力測定の記録へ変換する現象のことである」という話
文学回好きなんだけどここんとこ入れる隙が無かった
一月中旬。
警視庁警察学校。
年始の休暇も終わり、教場はすっかりいつもの空気を取り戻していた。
朝から走り込み。
腕立て。
腹筋。
教官の怒号。
年末年始で少しだけ緩んだ身体は、容赦なく現実へ引き戻される。
そんな午後。
同期たちが「今日は座学だ」と胸を撫で下ろしていた、その時だった。
教官が教壇へ立つ。
「——本日は古典文学を扱う。」
教場が静まり返る。
「松尾芭蕉、『奥の細道』だ。」
「げぇ……。」
教室の後方から、小さく情けない声が漏れた。
佐伯拓海だった。
「文字ばっかじゃねぇか……。」
「佐伯。」
「はい。」
「開始早々、文句を言うな。」
「すみません。」
素直だった。
三秒後には教本を開きながら欠伸をしていた。
通常運転である。
教官は静かに本文を読み始めた。
「—月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。」
教室は静かだった。
ページをめくる音だけが響く。
やがて教官は顔を上げた。
「佐伯。」
「はい。」
「この一節から何を読み取った。」
拓海は勢いよく立ち上がる。
「はい!」
自信満々だった。
「つまり。」
「すげぇ長い旅行記ですよね!」
教場が止まった。
「…………。」
教官も止まった。
同期たちも止まった。
数秒の沈黙。
教官は咳払いを一つする。
「……旅行記ではある。」
「ほら!」
「だが、それだけではない。」
「違うんですか?」
「違う。」
「えぇ……。」
同期の一人が頭を抱えた。
「佐伯、お前マジでそれしか感想ねぇのか。」
「いや。」
拓海は不思議そうに首を傾げる。
「旅したんだろ?」
「そうだ。」
「旅行記じゃん。」
「そこじゃない。」
「難しいな、文学。」
教官は軽くため息をつく。
「松本。」
龍平が静かに立ち上がる。
「時間を旅人になぞらえ、生と死、人生の移ろいを表現した導入です。」
「うむ。」
教官は頷く。
「その通りだ。」
拓海は腕を組んだ。
「でも人生も旅じゃん。」
「……。」
「結局同じじゃね?」
龍平は無言で席へ座る。
(同じ……なのか。)
理解が追いつかなかった。
授業は続く。
教官はページをめくった。
「では、この句だ。」
「夏草や 兵どもが 夢の跡。」
教場の空気が少し変わる。
「平泉で詠まれた、有名な一句だ。」
教官は教本を閉じた。
「佐伯。」
「はい。」
「今度こそ、この句から作者の思いを考えてみろ。」
拓海は真面目な顔になった。
ページを眺める。
平泉。
松島。
その前。
さらに前。
ページを行ったり来たりする。
「先生。」
「何だ。」
「確認なんですけど。」
「言ってみろ。」
「この人。」
さらにページをめくる。
「これ。」
「ほとんど歩いてるんですよね?」
「基本的にはそうだ。」
教場がざわついた。
嫌な予感しかしない。
拓海は教本を閉じる。
真顔だった。
「先生。」
「何だ。」
「松尾芭蕉。」
一拍置いて。
「体力おかしいです。」
教場が崩壊した。
「ぶっ……!」
「またそこか!」
「違うだろ!」
「お前何読んでんだ!」
笑いが広がる。
教官だけが頭を押さえていた。
「佐伯。」
「はい。」
「どこをどう読んだら、その結論になる。」
「いや先生。」
拓海は本当に不思議そうだった。
「江戸から平泉まで歩いて。」
「そのあとも歩いて。」
「まだ歩くんですよね?」
「そうだ。」
「俺。」
少し考えて。
「ラグビー部の合宿でも嫌です。」
再び教場が笑いに包まれた。
「義経もすげぇですけど。」
「ここまで歩いて来た芭蕉も、相当すげぇですよ。」
「普通に尊敬します。」
教官は深く息を吐いた。
「……佐伯。」
「はい。」
「文学を読め。」
「読んでます。」
「違う。」
教場の隅。
龍平は静かに規律本を閉じた。
意味が分からなかった。
文学を読んで。
歴史でもなく。
無常でもなく。
芭蕉本人の体力へ着地する。
そんな発想をする人間を、龍平は初めて見た。
やはり。
この男は、自分とは決定的に違う。
そう思う一方で
少しだけ引っ掛かる。
この男は、決して読んでいないわけではない。
ふざけてもいない。
芭蕉が歩いたこと。
義経が戦ったこと。
そこだけは、ちゃんと見ている。
ただ。
見る場所が、人と違う。
だから。
やっぱり理解できなかった。
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ウィルトシャー ハミルトンホール。
深夜。
ジョージから届いた週次報告書を開いたエドワードは、静かにコーヒーカップを置いた。
件名:サエキ、本日『奥の細道』を体力測定として読破。
「…………。」
しばらく無言だった。
やがて小さく息を吐く。
(……君は。)
(文学を読んでも。)
(結局、人を読むのだね。)
少しだけ目を閉じる。
「……タクミらしい。」
ジョージからは追伸が添えられていた。
「なお、教官は三回ため息をつき、同期は全員笑っていました。」
エドワードは報告書を閉じる。
「……通常運転か。」
その一言だけを残して、再び書類へ視線を落とした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




