第五百六話 「挨拶とは、お互いを好きになることではなく、「事情」を知った大型犬と、何も変わらず嫌いなままの秀才が、最低限の返答だけを交わすようになる現象のことである」という話
年明け回(`・ω・´)
一月上旬。
警視庁警察学校。
年末年始の短い休暇が終わり、教場には再び制服姿の同期たちが戻ってきていた。
朝の冷たい空気を押し返すように、教室のあちこちでは正月休みの話が飛び交う。
「実家帰ったら三キロ太ったわ。」
「俺なんて親父に毎日餅食わされた。」
「親戚集まると酒飲め酒飲めで大変だったぞ。」
「お年玉、まだ貰った奴いる?」
「妹に全部取られた。」
笑い声が広がる。
ほんの数日前まで、この教場にいた全員が、それぞれの「帰る場所」へ戻っていた。
家族。
地元。
幼馴染。
そんな言葉が自然と飛び交う。
警察学校という檻から少しだけ解放された者たちだけが纏う、穏やかな空気だった。
その輪の中で、
松本龍平だけは、何も変わらなかった。
席に着き、規律本を開く。
休暇前と同じ姿勢。
同じ表情。
同じ静けさ。
残寮届を書いてから今日まで、彼だけは時間が止まったままのようだった。
誰もそのことには触れない。
触れようともしない。
教場には、そういう暗黙の距離があった。
その時だった。
「おーーっ!!」
勢いよく教室の扉が開く。
「今年もよろしくなーーっ!!」
佐伯拓海だった。
「佐伯、お前朝から元気だな。」
「正月だからな!」
「意味分かんねぇ。」
「母さんの雑煮うまかったぞ!」
「はいはい。」
「あと菜摘んちで餅食って!」
「食い過ぎ。」
「姉ちゃんがフランスから菓子送ってきてさ!」
「お前正月ずっと食ってただけじゃねぇか。」
「だから元気なんだよ!」
「違う、ただ太っただけだ。」
「筋肉だ、バカ!」
「餅は筋肉にならねぇ。」
「なる!」
「ならねぇ。」
教室に笑いが広がる。
「佐伯。」
「ん?」
「うるさい。」
「ごめん!」
一秒で謝る。
そして三秒後には別の同期と笑っている。
相変わらずだった。
教場全体が、少しだけ騒がしくなる。
それが佐伯拓海という男だった。
そんな笑い声の向こうで
拓海の視線が、ふと龍平を捉えた。
規律本を読んでいる。
休暇前と寸分違わない姿。
その瞬間だけ。
拓海の足が止まった。
(……。)
(事情、か。)
年末。
神社の帰り道。
菜摘の言葉が、不意に頭をよぎる。
『相手にも、相手の事情があるんじゃないの?』
去年までなら。
迷わず聞いていた。
「何してた?」
「実家帰らなかったのか?」
悪気なんてない。
ただ知りたいから聞く。
それだけだった。
けれど。
今日は違う。
聞こうとして
止まる。
理由は分からない。
龍平の事情も知らない。
何を抱えているのかも知らない。
それでも。
今回は聞かなかった。
たったそれだけ。
たったそれだけの違いだった。
教室の窓際。
紙コップのコーヒーを片手に、その光景を眺めていた男が、小さく笑った。
ジョージだった。
「……あ。」
止まった。
サエキが。
去年なら、何も考えずに突っ込んでいった。
今日は違う。
三秒。
ほんの三秒だけ。
大型犬が立ち止まっている。
「これは快挙だね。」
思わず笑ってしまう。
もちろん。
四秒目には元通りだった。
「松本!」
龍平が顔を上げる。
拓海はいつもの笑顔だった。
「今年もよろしくな、バカちんが!^^」
結局そこだった。
ジョージは肩をすくめる。
「やっぱりサエキだ。」
変わっていない。
全部理解したわけでもない。
きっとこれからも空気は読むより壊す方が得意だ。
それでも。
一度だけ止まった。
その三秒を、ジョージは見逃さなかった。
龍平は、拓海を見つめていた。
事情は分かっていない。
自分の人生も知らない。
きっと全部は理解できない。
それでも。
今日は踏み込んでこなかった。
規律本を閉じる。
ほんの一瞬だけ迷い。
静かに口を開く。
「……ああ。」
それだけだった。
短い。
愛想もない。
仲直りでもない。
けれど。
去年なら返さなかった。
その二文字だけが、静かな教室へ落ちた。
「お。」
拓海が少しだけ目を丸くする。
(返事した。)
(今年はいい年かもしれねぇな。)
そんなことを、本気で考えている顔だった。
龍平は小さく息を吐く。
―やっぱり、分かっていない。
でも。
その分からなさが、少しだけ昨日とは違って見えた。
教官が教室へ入ってくる。
教官の号令が教場へ響く。
「総員、着席。」
教室の空気が一瞬で張り詰める。
休暇は終わった。
年が明けても、この場所だけは何も変わらない。
龍平は規律本を開き、前を向く。
佐伯拓海も、いつものように大きな返事をした。
さっき交わした「ああ」は、仲直りではない。
理解でもない。
許したわけでもない。
龍平の中で、佐伯拓海という男が嫌いだという事実は、年を越えても何一つ変わらなかった。
あの男は、今日も善意で笑う。
悪気なく踏み込み、
悪気なく手を差し伸べ、
悪気なく人を振り回す。
そして、その善意が届かなかった世界を知らない。
だから嫌いだ。
その評価は、一ミリも揺るがない。
ただ。
今日は、その善意が一度だけ立ち止まった。
「事情」という、自分には縁のなかった言葉の前で。
それだけだった。
龍平にとって、それは評価を改める理由にはならない。
二人を隔てる断絶は、相変わらずそこにある。
埋まることも、縮まることもない。
けれど佐伯拓海の胸の奥には、まだ答えにならない一つの言葉だけが、静かに残り続けていた。
―事情。
その意味を、本当に理解する日は、まだずっと先の話だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




