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第五百五話 「休暇とは、帰省ではなく、一人だけ残寮届へ名前を書く者と、その背中を見た大型犬が初めて「事情」を知る冬の始まりのことである」という話

もっとさくっと終わらせられればなぁ

十二月下旬。

警視庁警察学校。

厳しい規律に包まれた教場にも、年の瀬だけは少しだけ空気が違っていた。


教官が教壇に立ち、事務的な口調で告げる。


「——年末年始の外出および帰省について説明する。帰省する者は所定の手続きを行うこと。

帰省しない者は、今週中に残寮届を提出しろ。以上。」


号令が終わると同時に、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。


「やっと帰れるな。」


「実家で寝正月だ。」


「うちは親父が餅つくんだよ。」


そんな他愛もない会話が、教場のあちこちで自然と広がっていく。

誰もが当然のように「帰る場所」の話をしていた。


その中で、一人だけ。


松本龍平は何も言わなかった。

机へ一枚の用紙を広げ、静かにペンを走らせる。


”残寮届”。


誰にも説明しない。

理由も言わない。

ただ黙って、自分の名前を書くだけだった。


提出のため教壇へ向かう。


教官は書類を受け取り、名前を確認する。


一瞬だけ。

松本龍平の顔を見た。


「……分かった。」


それ以上は何も聞かない。

ただ静かに書類を受け取り、他の届の上へ重ねた。

それを見ていた同期の何人かは、何も言わなかった。


「松本、帰らないのか?」


そんな一言すら、この教場では誰も口にしなかった。

その様子を、少し離れた場所から拓海が見つける。


「お。」


大型犬はいつもの歩幅で近づいてきた。

悪気など一ミクロンもない。

ただ、周りが帰省の話をしているから、隣の同期にも同じように聞いただけだった。


「松本。」


龍平は顔を上げる。


「お前、帰んねぇの?」


短い沈黙。


龍平は拓海を見つめる。

その問いに悪意がないことくらい分かっていた。

だから余計に、何も言う気になれなかった。


(……そうか。)


(お前は、そう聞ける世界で生きてきたんだな。)


羨ましいとも違う。

腹立たしいとも少し違う。


ただ。

決定的に、自分とは違う。

そう思った。


「……残る。」


それだけだった。

理由は言わない。

説明もしない。


「そっか。」


拓海は笑って頷いた。


「じゃあ、また年明けな。」


それだけ言って、別の同期の輪へ戻っていく。

龍平はその背中を見送り、小さく息を吐いた。


周囲の同期たちは、一瞬だけ視線を交わす。

誰も何も言わない。

けれど、その短い沈黙だけで十分だった。


拓海は気付かなかった。


だが。


あの「俺、なんかしたか?」と尋ねた日から胸の奥へ引っ掛かっていた違和感だけは、

今回も消えなかった。


(……。)


(なんか。)


(また、違ったのかな。)


年末

警察学校も休みに入り、街は正月を迎える準備で慌ただしくなっていた。


拓海は実家近くの日向神社へ顔を出していた。

境内では参拝客を迎える準備が進み、菜摘は忙しそうに走り回っている。

ようやく一息ついたところで、二人は並んで境内の裏道を歩き始めた。


「警察学校どう?」


「んー。」


拓海は頭を掻く。


「なんかさ。」


「同期の松本って奴に、めちゃくちゃ避けられてんだよ。」


菜摘が首を傾げる。


「避けられてる?」


「うん。」


「この前、『俺なんかした?』って聞いたんだけど、『別に』しか言わねぇし。」


少し笑って続ける。


「今日もさ、帰省しないみたいだったから『帰んねぇの?』って聞いたら、『残る』だけで終わり。」


「なのに、周りの空気だけ変なんだよな。」


菜摘は少しだけ黙った。


龍平という人間は知らない。

だから、その人を評価するつもりもない。

見ているのは、目の前の幼馴染だけだった。


「拓海。」


「ん?」


「あんたさ。また余計なこと聞いたでしょ。」


「え?」


「その顔。」


「そんなこと……」


「絶対聞いたよね。」


「拓海、聞かれたくないことを聞かれたら、困ることくらいあるでしょ。」


「……え?」


「あなただって全部話すわけじゃないでしょう?」


拓海は歩きながら考える。


全部話さないこと。

そんなもの……

ある。


エドワードのこと。

イギリスで抱え込んできたこと。

相談しない癖。

誰にも言わず、一人で飲み込んできたこと。


「……ある。」


菜摘は小さく頷いた。


「でしょ。」


それ以上は何も言わなかった。

龍平の事情を勝手に想像しない。

拓海を責めもしない。


ただ、一つだけ視点を渡した。


”相手にも、相手の事情がある”。


その言葉だけを。


帰り道。

冬の空は高く澄み渡っていた。

拓海はダウンのポケットへ手を入れ、白い息を吐く。


「……事情、か。」


意味はまだ分からない。

松本龍平が何を抱えているのかも知らない。

どうしてあれほど自分を避けるのかも分からない。


それでも。

菜摘から渡されたたった一つの言葉だけは……


冬の冷たい空気の中でも、不思議なくらい胸の奥へ残り続けていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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