第五百四話 「対面とは、人生で初めて違和感を覚えた大型犬が答えを求め、秀才は『言っても伝わらない』と何も語らず扉を閉ざす現象のことである」という話
拓海なりに一応考えはする。
十一月下旬。
警視庁警察学校。
教場の日常は、今日も昨日と変わらず流れていた。
点呼。
号令。
座学。
術科。
誰もが少しずつ、この特殊な空気へ慣れ始めている。
そのなかで。
変わったのは、松本龍平ではなかった。
龍平は今日も変わらない。
佐伯拓海を避ける。
必要最低限しか話さない。
目も合わせない。
ただ、それだけだった。
変わり始めたのは、周囲だった。
「佐伯ってさ。」
「悪い奴じゃないんだけどな。」
「……まあ。」
「ちょっと距離近いよな。」
そんな言葉が、雑談の中へ自然に混ざるようになっていた。
悪口ではない。
嫌っている訳でもない。
ただ。
「良い奴だけど、ちょっと疲れる。」
そんな空気が、少しずつ教場全体へ広がり始めていた。
そして。
その空気を、一人だけぼんやり眺めている男がいた。
佐伯拓海。
マヨネーズを握ったまま、同期たちの輪を眺める。
笑っている。
いつも通りだ。
なのに。
どこか。
少しだけ。
距離がある。
「……?」
拓海は首を傾げた。
龍平だけではない。
最近。
何となく……
何となくだけ。
”教場の空気が少し違う”。
もちろん誰も無視はしない。
話しかければ返事も返ってくる。
笑えば笑ってくれる。
でも。
何かが違う。
その違和感だけが、胸のどこかへ小さく引っ掛かった。
(……なんだろ。)
答えは出ない。
人の感情を読むことは得意ではない。
だから考える。
珍しく。
少しだけ考える。
(松本も。)
(最近ずっとあんな感じだし。)
(……疲れてんのかな。)
そこまでは考えた。
だが
次の瞬間には。
(……いや。)
(俺、なんか変なこと言ったか?)
そこで思考が止まる。
人生で初めてだった。
”自分が原因なのではないか”。
そんな可能性を、ほんの少しだけ考えたのは。
けれど。
思い返しても何も分からない。
相談すればいい。
困っているなら助ければいい。
それが拓海にとっての普通だった。
だから。
龍平がなぜそこまで距離を置くのか。
どうしても理解できなかった。
「……。」
放課後。
術科訓練が終わる。
龍平は一人、規律本を鞄へしまっていた。
拓海は少し迷った。
迷った末に。
歩き出した。
分からない。
なら聞けばいい。
それが今まで生きてきた世界の当たり前だった。
「松本。」
龍平はゆっくり顔を上げる。
「……。」
「ちょっといいか。」
返事はない。
拓海は頭を掻いた。
「俺さ。」
「最近、お前に避けられてる気がするんだけど。」
一拍。
「……俺、なんかしたか?」
静寂が落ちた。
龍平は答えない。
視線だけが拓海へ向く。
その数秒が、妙に長かった。
(違う。)
(そこじゃない。)
龍平は心の中だけで呟く。
(言ったところで。)
(お前には分からない。)
違う世界で育った。
違う価値観で生きてきた。
違うものを当たり前だと思っている。
それを今さら数分で説明したところで。
”何一つ伝わらない”。
そう思っていた。
だから、
龍平は静かに鞄を持ち上げる。
「……別に。」
それだけだった。
説明もしない。
責めもしない。
そのまま歩いて行く。
拓海は、その背中を見送った。
「……。」
「……そうか。」
納得した訳ではない。
理解した訳でもない。
むしろ。
何も分からなかった。
「別に。」
その一言だけが頭へ残る。
点呼の笛が鳴る。
「佐伯!」
「あ、悪ぃ!」
慌てて駆け出す。
いつもの拓海だった。
けれど。
その日の夜。
自宅の部屋の中、
静かな天井を見つめながら。
拓海は珍しく同じことを考えていた。
(……なんだったんだろ。)
答えは出ない。
それでも。
小さな違和感だけは、消えずに胸の奥へ残っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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