第五百一話 「拒絶(パケット)とは、隣の者が放つ「いつも通りの普通」に対して、自らの心壁を少しずつ密閉していく現象のことである」という話
でしょうね!
十一月下旬。
警視庁警察学校の教場には、いつもの朝があった。
規律本を開く音。
椅子を引く音。
誰かが小さく咳をする音。
教官が来るまでの、ほんのわずかな猶予。
入校したばかりの頃にあった張り詰めた緊張は、もう少し薄れていた。
もちろん規律は厳しい。
怒号は飛ぶ。
点呼も訓練も掃除も容赦はない。
それでも、二ヶ月近く同じ教場で過ごしていれば、人間関係というものは勝手に形を持ち始める。
誰がよく喋るのか。
誰が運動に強いのか。
誰が勉強を見てくれるのか。
誰が不器用なのか。
誰が空気を壊すのか。
そういうものを、同期たちは少しずつ覚えていた。
その中で、最近、教場の何人かが気付き始めていることがあった。
”佐伯拓海と松本龍平”。
この二人の間だけ、空気が妙に噛み合っていない。
最初は、ただの偶然に見えた。
松本は元々、誰とも必要以上に話さない。
無愛想というより、最初から距離を置いている人間だった。
だから佐伯に対して返事が薄くても、特別おかしいとは思われなかった。
だが、数日続けば、さすがに分かる。
松本龍平は、佐伯拓海を避けている。
それも、かなり露骨に。
そして問題は。
佐伯拓海だけが、それをよく分かっていないことだった。
「おはよう、松本」
その朝も、拓海はいつも通り教場へ入ってきた。
支給された重い鞄を肩にかけ、少し寝癖の残った髪を手で直しながら、
まっすぐ自分の席へ向かう。
龍平の席は、その途中にあった。
だから拓海は、ごく普通に声をかけた。
昨日もそうした。
一昨日もそうした。
その前も、多分そうした。
そこに特別な意味はない。
同じ教場の同期だから。
朝だから。
顔を見たから。
それだけだった。
龍平は返事をしなかった。
規律本を開いたまま、視線を一ミリも動かさない。
声が聞こえていないはずはなかった。
拓海の声はよく通る。
教場の端にいても聞こえる。
なのに龍平は、まるでそこに誰もいないかのようにページをめくった。
拓海は一瞬だけ首を傾げる。
「……?」
そして、それ以上は何も言わなかった。
忙しいのかもしれない。
集中しているのかもしれない。
そう思っただけだった。
近くの席にいた同期が、小さく息を吐く。
「……またか」
「まただな」
「佐伯、気付いてんのか?」
「いや、あれは気付いてないだろ」
小声だった。
拓海には届いていない。
だが龍平には聞こえていた。
聞こえていたからこそ、余計にページをめくる指に力が入った。
”関係ない”。
自分はただ、関わりたくないだけだ。
避けている。
その通りだ。
だから何だ。
誰かに迷惑をかけているわけではない。
必要な連絡はする。
訓練もする。
規律も守る。
それ以上を求められる筋合いはない。
龍平は文字を追う。
だが、内容は入ってこなかった。
視界の端で、拓海が自分の席へ座る。
隣の同期に何かを言われ、笑っている。
昨日と同じ。
一昨日と同じ。
何も変わらない顔。
その普通さが、龍平にはひどく腹立たしかった。
(……来るな)
心の中で呟く。
声には出さない。
出す必要もない。
(放っておいてくれ)
拓海は悪意を持って近付いてきているわけではない。
それくらいは分かっている。
分かっているから、余計に拒絶するしかなかった。
************
昼休み。
食堂は朝の教場より少しだけ空気が緩い。
訓練の話。
教官の話。
実家の話。
飯の量の話。
同期たちは班ごと、あるいは気の合う者同士で席に座っていた。
龍平はいつものように、端の席を選んだ。
壁を背にできる場所。
周囲を見なくても済む場所。
誰かに話しかけられにくい場所。
そこに座り、黙って食事を始める。
しばらくして、視界の端にトレーが入った。
「松本、ここ空いてる?」
佐伯拓海だった。
龍平は答えなかった。
答える代わりに、箸を置いた。
そして、トレーを持って立ち上がる。
拓海が目を瞬かせる。
「え」
龍平は何も言わない。
そのまま別の空席へ移動した。
食堂の一角が、ほんの少しだけ静かになる。
完全な沈黙ではない。
けれど、確かに何人かが気付いた。
今のは、聞こえていなかったわけではない。
気付かなかったわけでもない。
明確に避けた。
「……おい」
拓海の近くにいた同期が、困ったように声を落とす。
「佐伯」
「ん?」
「お前、松本に何かしたのか?」
「何か?」
拓海は本気で首を傾げた。
「いや、分かんねぇ」
「分かんねぇって」
「怒ってるっぽいのは分かる」
「分かってんのかよ」
「でも何で怒ってるかは分かんねぇ」
そう言って、拓海は空いた席に腰を下ろした。
悪びれた様子はない。
不機嫌な様子もない。
ただ、本当に分からないという顔をしている。
同期は何とも言えない顔になった。
「いや……あれだけ避けられてたら普通、少し距離置くだろ」
「何で?」
「何でって」
「同じ教場だし」
「いや、そうだけど」
「訓練でも一緒になるだろ」
「まあ、なるけど」
「だったら普通にするしかなくね?」
拓海は味噌汁を飲んだ。
「避けたら余計変だろ」
同期は言葉に詰まった。
確かに、理屈だけならそうかもしれない。
同じ教場。
同じ訓練。
同じ生活。
この先も顔を合わせる。
”だったら普通にする”。
その考え方は間違っていない。
けれど、そういう問題ではなかった。
「佐伯ってさ」
「ん?」
「たまにすげぇな」
「何が?」
「いや……」
同期は諦めたように笑った。
「まあいい」
拓海は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
少し離れた席で、龍平はその会話を聞いていた。
聞きたくなくても聞こえた。
同じ食堂だ。
声は届く。
箸を持つ手が止まる。
―怒ってるっぽいのは分かる。
―でも何で怒ってるかは分かんねぇ。
龍平は奥歯を噛んだ。
(……そうだろうな)
分かるはずがない。
あの男には分からない。
分からないまま、普通に近付いてくる。
分からないまま、普通に笑う。
分からないまま、普通に「同じ教場だから」と言う。
その普通が。
龍平には、どうしようもなく耐え難かった。
*************
午後。
逮捕術の訓練。
胴着に着替えた同期たちが、教官の号令に従って並ぶ。
冬に近い空気は冷たいはずなのに、訓練場にはすでに熱がこもっていた。
「次、二人一組」
教官の声が飛ぶ。
「佐伯、松本」
一瞬。
空気が止まった。
それはほんのわずかなものだった。
けれど、近くにいた同期たちは気付いた。
誰かが小さく「あ」と言った。
拓海はいつも通り手を上げる。
「はい!」
龍平は一拍遅れて返事をした。
「はい」
声は低く、平坦だった。
二人が向かい合う。
拓海は軽く肩を回した。
「よろしく」
龍平は目を合わせない。
「始めます」
それだけだった。
拓海は少しだけ眉を上げる。
だがすぐに頷いた。
「おう」
訓練が始まる。
龍平は手順通りに動いた。
正確だった。
無駄がない。
力任せではなく、角度と重心で相手を崩す。
拓海は受けながら、その動きをすぐに理解した。
「今の入り方、上手いな」
返事はない。
龍平は次の動作へ移る。
「そこ、もう一回いいか」
「手順通りです」
「いや、今の体重の乗せ方」
「手順通りです」
「そうか」
拓海は納得したように頷く。
本当に、それ以上何も言わなかった。
龍平は苛立った。
何故か分からない。
話しかけられて苛立つ。
褒められて苛立つ。
踏み込まれて苛立つ。
拒絶しても、あっさり引かれて苛立つ。
何をされても腹が立つ。
(……嫌いだ)
組み合うたびに、拓海の体温が近い。
ラグビーで鍛えられた身体は重く、真っ直ぐで、受ける時も逃げない。
必要以上に力を入れない。
けれど、手を抜いてもいない。
真面目だ。
だから余計に腹が立つ。
(来るな)
龍平は拓海の腕を取る。
(近付くな)
崩す。
(放っておいてくれ)
受け身を取った拓海が、すぐに起き上がる。
「もう一回頼む」
龍平は息を吐いた。
「……分かりました」
周囲は、その二人を見ていた。
訓練としては成立している。
むしろ動きは悪くない。
拓海は素直に受ける。
龍平は正確にかける。
教官も咎めない。
ただ、会話だけが噛み合っていない。
温度だけが違う。
拓海だけがいつも通りで。
龍平だけが、徹底的に扉を閉ざしている。
「……あれ、喧嘩してんのか?」
「いや、佐伯は普通だろ」
「じゃあ松本が一方的に?」
「そう見えるけど」
「でも、佐伯も何かしたんじゃねぇの?」
「したなら本人が分かってるだろ」
「……佐伯だぞ」
その一言で、何人かが黙った。
佐伯拓海なら、悪気なく何かを踏む。
それはもう、教場の何人かが薄々理解し始めていた。
悪い奴ではない。
むしろ良い奴だ。
素直で、真面目で、裏表がない。
けれど。
だからこそ、踏む。
人が避けて通る場所へ、疑いなく足を置く。
しかも本人は、それが地雷だったことに気付かない。
*************
訓練が終わった後
龍平はすぐにその場を離れようとした。
だが、背後から声が飛ぶ。
「松本」
呼ばれた。
聞こえないふりをするには近すぎた。
龍平は立ち止まる。
振り返らない。
「今の、助かった」
拓海の声だった。
「俺、あの入り方苦手だったから」
龍平は少しだけ横を向く。
「……教官に確認してください」
「いや、お前のが分かりやすかった」
「そうですか」
「おう」
沈黙。
拓海は何か言おうとしていた。
龍平には分かった。
分かったから、先に歩き出した。
これ以上、言葉を受け取りたくなかった。
「松本」
二度目の声。
龍平は止まらない。
周囲の同期が、気まずそうに視線を交わす。
拓海はその場に立ったまま、少しだけ困った顔をした。
「……やっぱ怒ってるよな」
近くにいた同期が言う。
「だから言ったろ」
「でも何でだ?」
「知らねぇよ」
「俺、何かしたかな」
「それを本人に聞けよ」
「聞こうとしたら行っちまう」
「じゃあしばらく放っとけ」
拓海は首を傾げた。
「放っといていいのか?」
「いいだろ」
「でも同じ教場だぞ」
「同じ教場だからだよ」
同期は少しだけ声を落とした。
「距離置いてやれって」
拓海は黙った。
距離。
それが、いまいち分からない。
怒っているなら話した方がいい。
気まずいなら普通にした方がいい。
分からないなら聞けばいい。
そう思っていた。
けれど、どうやらそれが通じない相手もいるらしい。
拓海は訓練場の出口を見る。
龍平の背中はもう見えなかった。
「……難しいな」
ぽつりと呟く。
その声は、誰にも拾われなかった。
*************
夕方。
教場。
訓練後の疲れが残る中、同期たちは黙々と片付けや予習をしていた。
龍平は自分の席に座り、規律本を開いていた。
文字は読めている。
意味も分かる。
必要なことは頭に入る。
それなのに、意識のどこかがまだ訓練場に残っていた。
佐伯拓海。
あの男は、今日も変わらなかった。
無視しても。
席を立っても。
必要最低限で切っても。
それでも、普通に声をかけてきた。
普通に礼を言った。
普通に困った顔をした。
(……何なんだ)
怒るなら分かる。
不機嫌になるなら分かる。
避け返すなら分かる。
だが、あいつはそうしない。
拒絶されていることに気付いても、まだ「普通」でいようとする。
その普通が、龍平には分からない。
分からないから苛立つ。
苛立つから、余計に嫌いになる。
ページをめくる。
紙の音がやけに大きく聞こえた。
(嫌いだ)
一度目。
(嫌いだ)
二度目。
(本当に、嫌いだ)
三度目。
それは、何かを納得させるための言葉だった。
自分へ向けた確認だった。
佐伯拓海は嫌いだ。
あの距離感が嫌いだ。
あの声が嫌いだ。
誰にでも同じように近付くところが嫌いだ。
拒絶されても、なぜ拒絶されたのか分からないまま、
まだ手を伸ばそうとするところが嫌いだ。
そして。
そんな相手を見て、どうしても意識してしまう自分が、何より嫌だった。
少し離れた場所で、拓海が別の同期と話している。
笑っている。
いつも通りに。
本当にいつも通りに。
龍平は視線を落とした。
関係ない。
自分には関係ない。
そう思おうとした。
だが、もう遅かった。
教場の中で、佐伯拓海という存在は、少しずつ全員の視界に入り始めている。
そして自分もまた、その例外ではなくなっている。
その事実が、ひどく不快だった。
龍平は規律本を閉じる。
今日も事件は何も起きていない。
劇的な衝突もない。
怒鳴り合いもない。
ただ、朝に無視し。
昼に席を立ち。
訓練では必要最低限だけを話し。
夕方にまた、嫌いだと思った。
それだけの日だった。
けれど、その「それだけ」が。
松本龍平の中にある拒絶を、前日よりほんの少しだけ厚くしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




