第四百九十九話 「矛盾(バグ)とは、他人には「相談すればよかったのに」と手を差し伸べながら、自分の痛みだけは誰にも預けられず、一人で抱え込んでしまう現象のことである」という話
足指骨折し、なおかつ指をかばってこけまくり尻を強打し悶絶しました。
十一月中旬。
警視庁警察学校。
あの日。
松本龍平は、佐伯拓海へはっきりと言った。
「……お前に何が分かる。何も知らないくせに」
あれで終わったと思っていた。
普通なら。
あれだけ拒絶されれば距離を置く。
気まずそうに目を逸らす。
あるいは、二度と話しかけてこない。
そういうものだと思っていた。
だから翌朝。
教室の扉が開き、いつもと変わらない大きな声が響いた瞬間、龍平は思わず顔を上げた。
「おはよう、バカ!」
佐伯拓海だった。
昨日と何一つ変わらない笑顔。
昨日と何一つ変わらない声。
昨日と何一つ変わらない距離感。
まるで昨日の出来事そのものが存在しなかったかのように、あいつは教官へ挨拶をし、
同期と笑い、何事もなかったように席へ着く。
龍平は無言で前を向いた。
(……何なんだ)
理解できない。
あれだけ拒絶した。
あれだけ傷つけた。
それなのに。
どうして普通に笑える。
グラウンドへ出れば、誰よりも真面目に走る。
訓練では一切手を抜かない。
昼になれば山盛りの白米を美味そうに頬張り、「腹減った!」と笑っている。
その姿を見れば見るほど、龍平の胸の奥には説明のつかない苛立ちが積もっていく。
(……何も響いていないのか)
(それとも)
(本当に、分かっていないのか)
嫌いだ。
本当に嫌いだ。
世界を信じ、人を信じ、昨日拒絶されたことさえ引きずらずに笑っていられる、
その生き方そのものが。
だが。
視線だけは、何故か何度も佐伯へ向いてしまう。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
理解したくないのに、理解できない。
その「分からなさ」が、龍平の心を少しずつきしませていた。
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夜。
佐伯家。
拓海は自室の机に向かい、教本を開いていた。
ページをめくる。
シャーペンを走らせる。
静かな部屋に、小さな筆記音だけが響く。
ふと。
手が止まった。
『……何も知らないくせに』
昼間ではなく。
あの日でもなく。
誰もいない静かな部屋で、その言葉だけが不意に胸へ落ちてくる。
「……」
拓海は何も言わなかった。
反論もしない。
怒りもしない。
ただ静かに教本を閉じる。
机の上にはスマートフォンが置かれていた。
母。
菜摘。
エドワード。
画面には、すぐ連絡できる相手が並んでいる。
拓海はしばらくそれを見つめ―
何もせず、画面を閉じた。
誰にも話さない。
誰にも相談しない。
人には「相談すればいい」と言えたはずなのに。
自分が初めてぶつかった答えのない壁だけは、どうしていいのか分からなかった。
部屋の明かりが消える。
静まり返った個室で、その日も拓海は一人、答えのない問いだけを胸に抱えたまま眠りについた。
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遠隔観測――ウィルトシャー、ハミルトンホール。
深夜。
執務室には書類が積み上がり、暖炉の火だけが静かに揺れている。
その中央で、エドワード・ハミルトンはジョージから送られてきた定期報告書へ目を落としていた。
『佐伯、本日も通常運転』
『教場での様子に大きな変化なし』
『夜、自室にて予習後、就寝』
短い文章。
それだけだった。
エドワードは最後の一行をもう一度読む。
> 夜、自室にて予習後、就寝。
「…………」
静かな部屋に沈黙だけが落ちた。
普通なら安心する報告だった。
事件もない。
怪我もない。
教本を開き、眠った。
それだけ。
けれど。
「ジョージ」
低い声が響く。
「はい。」
「……君は、彼が"普通に眠った"と報告している。」
「その通りだけど。」
「私は違う見方をする。」
報告書を机へ置く。
指先で軽く叩く。
「彼は、誰にも相談していない。」
ジョージは黙った。
「昼は笑う。」
「訓練も普段通り。」
「夜は教本を開き、一人で眠る。」
「それは"元気"ではない。」
「彼は昔から、答えの出ないことほど、一人で抱え込む。」
ジョージは小さく息を吐いた。
「菜摘さんたちと同じ分析だね。」
「当然だ。」
エドワードは迷いなく答える。
「あの二人は、私より長く彼を見てきた。」
一瞬だけ視線が窓へ向く。
英国の夜は静かだった。
「……ジョージ。」
「はい。」
「監視を強める必要はない。」
「ですが。」
「変わらず観察だけを続けろ。」
「助けを求めない限り。」
「私は手を出さない。」
その一言だけが、妙に重かった。
誰よりも飛んで行きたい。
誰よりも隣へ立ちたい。
それでも。
彼が自分で歩こうとしている以上、その選択だけは尊重する。
それがエドワード・ハミルトンという男だった。
報告書を閉じる。
最後にもう一度だけ、小さく呟いた。
「……本当に、不器用だ。」
それが。
誰にも聞こえない、本日の感想だった。
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”ジョージの日本支部・機密ログ”
十一月某日。
本日のサエキは、昼間はいつも通り笑い、走り、飯を食べ、
夜になると誰にも何も言わず教本を閉じて眠った。
以上。
……なのだけれど。
ハミルトン家の魔王様は、この「何もなかった」という報告書を十五分眺めたあと、
「彼は誰にも相談していない。」
という一行だけで情緒を完全停止させていた。
人はそれを、重症という。
なお本人は今日も、
「私は正常だ。」
と真顔で書類へ戻っている。
正常とは何だったのか。
引き続き、極東の大型犬と英国の魔王を定点観測するものとする。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




