第四百九十八話 「幼馴染とは、「大丈夫」が一番信用できない相手を知っている現象のことである」という話
どうしようもない距離感?
十一月中旬、東京。
警察学校の教場で、佐伯拓海が松本龍平という現実に真正面からぶつかり、
人生で初めて処理しきれない拒絶を抱えていた頃。
その少し外側の日常にいる菜摘は、自分のスマホの画面を見つめていた。
着信履歴。
メッセージ。
そこに並ぶ拓海の名前は、以前より少しだけ少ない。
ほんの少し。
普通の人なら気づかないくらいの差だった。
けれど、菜摘には分かる。
幼稚園の頃から、あの騒がしい大型犬の面倒を何度となく見てきた。
転んだ時。
喧嘩した時。
無理をした時。
怒られた時。
拓海は、本当にどうでもいいことなら、すぐに騒ぐ。
「腹減った」
「眠い」
「やばい」
「死ぬ」
大体死なない。
本当にどうでもいい時ほど大げさで、本当に困っている時ほど、妙に明るくなる。
だから。
最近の拓海の連絡が少しだけ減ったことと。
その少ない連絡の中身が、やけに元気なこと。
その二つが、菜摘には引っかかっていた。
『警察学校、マジで元気だ。飯も食ってる。心配すんな、バカ』
画面に残る短い文字。
菜摘は小さく眉を寄せる。
「……嘘くさい」
思わず呟いた。
************
その日の夕方。
菜摘は、用事のついでに佐伯家へ立ち寄った。
玄関を開けると、台所から絢子の声がする。
「菜摘ちゃん、いらっしゃい」
「こんばんは。これ、母からです」
「まあ、ありがとう。上がっていって」
佐伯家の空気は、昔から変わらない。
台所の匂い。
湯気。
食器の音。
拓海がそこにいなくても、どこかに気配だけは残っているような家だった。
菜摘がリビングの椅子に座ると、絢子が温かいお茶を出してくれる。
少し世間話をしてから、絢子がふと尋ねた。
「拓海から、連絡あった?」
「あ、はい。一応」
菜摘はスマホを少し持ち上げる。
「元気そうでした」
「そう」
絢子は静かに頷く。
「それなら、何かあるわね」
菜摘は思わず笑った。
「あ、やっぱり分かります?」
「分かるわよ。母親だもの」
絢子は困ったように笑う。
「本当に何もない時のあの子は、もっとどうでもいいことで連絡してくるでしょう?」
「そうなんですよね」
菜摘は深く頷く。
「『靴下片方ない』とか『爪切り忘れた』とか『昼に食べたカレーが辛かった』とか」
「そうそう」
二人は少しだけ笑った。
だが、すぐに静かになる。
拓海が元気そうにしている。
だからこそ、何かある。
その感覚は、二人とも同じだった。
「昔からですよね」
菜摘はスマホの画面を伏せる。
「本当に困ってる時ほど、平気な顔するの」
絢子は湯飲みに視線を落とす。
「そうね」
「周りに心配かけたくないんでしょうね」
「ええ」
「でも、そういう時ほど面倒なんですよ。あいつ」
菜摘は少し口を尖らせた。
「言えばいいのに、絶対言わないから」
絢子は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「……あの子は、人には頼れって言うのにね」
菜摘は一瞬だけ目を伏せた。
「そうですね」
「自分は、なかなか頼らない」
「はい」
その短いやり取りだけで十分だった。
二人とも知っている。
拓海は、困っている人間を放っておけない。
誰かが苦しんでいれば、真っ先に手を伸ばす。
一人で抱え込むなと、本気で言う。
けれど、自分のことになると急に下手になる。
大丈夫。
平気。
何とかなる。
そう言って、笑ってしまう。
その笑顔の裏側で何を抱えているのか、本人でさえ正確には分かっていないことがある。
「警察学校って、やっぱり大変なんでしょうね」
菜摘が呟く。
「ええ。あの子が選んだ道だから、見守るしかないけれど」
「……誰かに怒られたとかですかね」
「ありそうね」
「何か余計なこと言ったとか」
「もっとありそうね」
二人はまた少し笑った。
笑える程度の不安にしておきたかった。
けれど、笑いきれない何かが、確かにそこにあった。
「菜摘ちゃん」
「はい」
「もし、あの子が本当に何か抱えているように見えたら」
絢子は少しだけ間を置いた。
「その時は、声をかけてあげて」
菜摘は頷く。
「もちろんです」
言われなくても、そのつもりだった。
むしろ。
言われなくても、気になってしまう。
それが自分にとって当たり前になっていることを、菜摘はまだ深く考えようとはしなかった。
************
その数日後。
仕事帰り。
菜摘は、恋人の高坂と駅近くのカフェにいた。
店内は落ち着いた照明で、窓の外には夜の街が流れている。
高坂は向かい側でコーヒーを飲みながら、仕事の話をしていた。
来年のこと。
引っ越しのこと。
貯金のこと。
言葉にこそしないが、その先にあるものを、菜摘も何となく感じている。
高坂は誠実な人だ。
優しい。
堅実で、未来をちゃんと考えてくれる。
そのことに不満なんてない。
ないはずだった。
「それでさ、来年あたり――」
高坂が言いかけた時だった。
菜摘のスマホが、小さく震えた。
画面に表示された名前。
【拓海】
菜摘の視線が、ほんの少しだけ揺れる。
高坂はそれを見逃さなかった。
「……出なくていいの?」
「あ、うん。あとでいい」
菜摘はスマホを伏せる。
けれど、その指先は画面の上に少しだけ残った。
高坂は何も言わない。
ただ、コーヒーへ視線を落とす。
拓海。
”佐伯拓海”。
菜摘の幼馴染。
昔から知っている相手。
それは分かっている。
分かっているのに、最近、その名前が出る回数が少しだけ増えた気がする。
いや。
増えたというより。
菜摘の意識のどこかが、常にそちらへ向いている。
そんな気がした。
嫉妬というには、まだ早い。
疑うようなことでもない。
ただ。
高坂の中に、小さな違和感だけが残る。
菜摘は困ったように笑った。
「ごめん。拓海、最近ちょっと変で」
「警察学校、大変なんじゃない?」
「うん。多分」
「元気そうなんでしょ?」
「元気そうだから、変なの」
高坂は一瞬だけ言葉に詰まった。
普通なら、元気そうなら安心する。
けれど菜摘は違う。
”元気そうだから心配している”。
その理屈は、高坂にはまだよく分からなかった。
けれど。
分からないからこそ、少しだけ不安だった。
菜摘が知っている拓海を、自分は知らない。
その事実が、コーヒーの苦味のように、ゆっくり胸の奥へ残っていく。
「……幼馴染って、そういうもの?」
高坂が何気なく尋ねる。
菜摘は少し考えてから笑った。
「うーん」
「拓海の場合は、ちょっと面倒かな」
高坂は笑い返した。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
菜摘の伏せたスマホが、もう一度だけ小さく震えた。
その小さな振動は、二人の間に置かれたテーブルの上で、妙にはっきり響いた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




