第四百九十七話 「拒絶(バグ)とは、善意に生存ログを否定された者が、その光ごと相手の世界を憎む現象である」という話
関係ないですが最近めちゃくちゃついてないです(´・ω:;.:...
翌朝。
警視庁警察学校の教場には、まだ朝の冷たさが残っていた。
窓から差し込む光は薄く、机の上に置かれた規律本の角だけを白く照らしている。
誰かが椅子を引く音。
鞄を置く音。
小さな欠伸。
「眠いな」と笑う声。
いつもと同じ朝だった。
松本龍平は、自分の席に座っていた。
規律本は開いている。
だが、一行も読めていない。
文字は見えている。
意味は入ってこない。
指先だけが、同じページの端を何度もなぞっていた。
昨日の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
『相談すればよかったのに』
何度思い返しても、同じところで胸が冷える。
あれは、悪意ではなかった。
それくらい分かっている。
馬鹿にされたわけではない。
見下されたわけでもない。
同情ですら、なかったのかもしれない。
佐伯拓海は、本当にただ不思議だったのだろう。
困っていたなら。
苦しかったなら。
なぜ助けを求めなかったのか。
なぜ相談しなかったのか。
なぜ、使えるものを使わなかったのか。
そう思っただけなのだ。
だからこそ、龍平は腹が立った。
悪人なら楽だった。
怠け者なら楽だった。
卑怯者なら。
人を見下す奴なら。
自分は迷わず嫌えた。
”あいつは最低だ”。
そう切り捨てて終われた。
だが、違う。
佐伯拓海はそういう人間ではない。
昨日、話を聞いた時。
あいつは笑わなかった。
茶化さなかった。
「大変だったんだな」と、本当に思っていた。
その顔に嘘はなかった。
嘘がなかったから。
その次に出てきた一言が、余計に深く刺さった。
相談すればよかったのに。
違う。
違うんだ。
そんな簡単な話じゃない。
相談しなかったんじゃない。
知らなかったんじゃない。
放っておいたんじゃない。
全部やった。
使えるものは全部使おうとした。
それでも届かなかった。
それでも足りなかった。
それでも、どうにもならなかった。
そういうことが、この世にはある。
それを知らないまま生きてこられた人間が、目の前にいる。
そのことが、龍平には耐え難かった。
拓海が嫌いなのか。
それとも、拓海の向こう側にある世界が嫌いなのか。
自分でも分からない。
ただ、あいつを見るたびに思ってしまう。
もし。
もし自分が、あんなふうに世界を信じられる場所で育っていたら。
困れば誰かが助けてくれると、当たり前に思える家に生まれていたら。
人を信じても裏切られないまま大人になれていたら。
自分は、今とは違う人間になっていたのだろうか。
もっと素直に笑えたのだろうか。
誰かに頼れたのだろうか。
目の前の相手を、疑う前に信じられたのだろうか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、龍平は息を止めた。
馬鹿馬鹿しい。
考えても意味がない。
そんな「もし」は存在しない。
自分は自分で、佐伯拓海は佐伯拓海だ。
立ってきた場所が違う。
見てきたものが違う。
それだけの話だ。
それだけの話なのに。
その「それだけ」が、どうしようもなく重かった。
龍平は規律本を握り締める。
指先に力が入る。
紙が小さく歪んだ。
その時だった。
教場の扉が開く。
朝の空気を乱すように、明るい声が響いた。
「おはよう!」
何人かが顔を上げる。
何人かが返事をする。
龍平は、反射的に視線を向けてしまった。
佐伯拓海だった。
昨日と同じ顔。
昨日と同じ声。
昨日と同じ、何も疑っていない目。
拓海は大きな鞄を肩に掛けたまま教場へ入ってくると、周囲へいつも通りに挨拶をしていた。
「眠ぃな、今日も」
「昨日より寒くねぇ?」
「お、もう来てたのか」
誰に対しても変わらない。
そして。
龍平の席の近くまで来た時、拓海は少しだけこちらを見る。
昨日のことを思い出していないわけではない。
それは、ほんのわずかな間で分かった。
けれど、避けることもしない。
気まずそうに笑うこともしない。
ただ、いつものように。
当たり前のように。
「あ、おはよう、松本」
そう言った。
龍平は返事をしなかった。
喉が動かなかった。
頭の奥で、何かが嫌な音を立てる。
(……来るな)
(話しかけるな)
(もう、僕に関わるな)
そう思っているのに。
拓海はそこに立っている。
まるで昨日の言葉を拒絶として受け取っていないかのように。
いや。
違う。
受け取っていないわけではない。
きっと、拓海なりに考えたのだろう。
何かまずいことを言ったのかもしれない。
怒らせたのかもしれない。
それくらいは思ったのかもしれない。
それでも。
今日も「おはよう」と言う。
同じ教場にいる。
同じ同期だから。
それだけで、声を掛ける。
その当たり前が、龍平には苦しかった。
(……どうして)
どうしてそんな顔ができる。
どうして昨日の今日で、そんなふうに普通でいられる。
どうして。
人を信じることを、そんなに簡単に続けられる。
あいつは空気を読んでいないのではない。
昨日のことを忘れているのでもない。
たぶん。
昨日も今日も、同じなのだ。
佐伯拓海は、佐伯拓海のままでいる。
誰かに嫌われても。
誰かに拒絶されても。
自分がその理由を完全には理解できなくても。
「おはよう」と言うことをやめない。
その強さが。
その鈍さが。
そのまばゆさが。
どうしようもなく腹立たしかった。
悪気があればよかった。
嘘があればよかった。
計算があればよかった。
そうすれば、自分はもっと簡単にこの男を嫌えた。
だが、あいつにはない。
悪意も。
嘘も。
計算も。
だから嫌いだ。
善人だから嫌いだ。
その善意のまま、自分の人生を簡単に照らしてくるから。
その光で、届かなかった場所を見せつけてくるから。
自分が諦めてきたものを、
まるで「本当は届いたはずだった」と言われているような気がするから。
嫌いだ。
佐伯拓海が嫌いだ。
あいつの笑顔が嫌いだ。
声が嫌いだ。
何も疑わずに朝の教場へ入ってくる、あの足取りが嫌いだ。
そして何より。
そんなふうに嫌っている自分自身が、ひどく惨めで嫌だった。
龍平は視線を落とす。
規律本の文字がにじんで見えた。
泣いているわけではない。
ただ、息が詰まっているだけだ。
拓海はそれ以上何も言わず、自分の席へ向かった。
いつも通り。
本当に、いつも通り。
その背中を、龍平は見ないようにした。
それでも視界の端に映る。
大きな背中。
何も知らない背中。
自分が持てなかったものを、当たり前のように抱えたまま歩いていく背中。
龍平は、心の中で何度も繰り返す。
嫌いだ。
嫌いだ。
本当に、嫌いだ。
この時点で、松本龍平の中に、拓海を理解しようという気持ちは一つもなかった。
歩み寄りもない。
許しもない。
ただ拒絶だけがあった。
そしてその拒絶は、昨日よりもずっと深く、静かに、彼の中へ根を張っていった。
****************
遠く離れたウィルトシャー。
ハミルトンホールの執務室には、朝霧が白く沈んでいた。
エドワード・ハミルトンは、ジョージから送られてきた報告書を静かに読んでいた。
【サエキは今朝も、松本龍平くんへ通常通り挨拶しました】
【松本くんは応答せず。表情は極めて硬く、拒絶の傾向はさらに強まっています】
エドワードはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……彼は変わらない」
通信の向こうで、ジョージが静かに相槌を打つ。
「ええ」
「昨日も今日も、タクミは同じ人間でいるだけだ」
画面には、朝の教場で拓海が龍平へ声を掛けた一枚の画像が添えられている。
何気ない挨拶。
何気ない笑顔。
何も知らないまま人へ向かう、あの拓海の光。
エドワードはその画像を見つめた。
「だからこそ、松本くんは苦しい」
「サエキが変わらないことそのものが、彼には刃になりますからね」
「分かっている」
エドワードは目を伏せる。
「彼が拒絶しているのは、タクミだけではない」
「はい」
「タクミが信じている世界そのものだ」
ジョージは何も言わなかった。
エドワードは画面を閉じないまま、しばらく静かに座っていた。
「……タクミは、彼を傷つけている」
低い声だった。
「だが、タクミはタクミでいるだけだ」
「ええ」
「それが一番、残酷だな」
ジョージの返事はなかった。
沈黙だけが、ハミルトンホールの執務室に落ちる。
やがてエドワードは、冷めた紅茶へ手を伸ばした。
口をつけることはない。
ただ、カップの縁を指先でなぞる。
「……ジョージ」
「はい」
「松本龍平を、引き続き見ておけ」
「承知しました」
「彼を排除するな」
「もちろんです」
「彼は、タクミに必要な現実だ」
一拍。
「そして、タクミは彼にとって、耐え難い光なのだろう」
ジョージは静かに答えた。
「その通りかと」
エドワードは、もう一度だけ報告書の画面を見る。
【応答なし】
その短い記録が、妙に重かった。
「……タクミ」
誰に向けるでもなく、エドワードは呟く。
「君はまた、知らないまま人を傷付けているのだね」
責める声ではなかった。
ただ、知っている者の声だった。
そして、拓海がそのままであることを望んできた者の、ひどく苦い確認でもあった。
窓の外の霧は、まだ晴れない。
エドワードはしばらく、その白い景色を見つめていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




