第四百九十六話 「教育(ねがい)とは、世界を信じ切るまばゆい光を我が子へ託し、その光が誰かの救いにも刃にもなる理不尽を受け入れ、それでも未来だけは信じ抜く覚悟のことである」という話
絢子さんはお嬢育ちです
帰り道。
十一月の冷たい風が、警察学校帰りの制服の裾を揺らしていた。
支給された重いバッグを肩に担ぎながら、佐伯拓海は大きく伸びをする。
「あー……疲れた。バカちんが……」
頭をガリガリと掻く。
だが今日の疲労は、走場訓練や講義のせいだけではなかった。
脳内の片隅に、ずっと引っ掛かっているログがある。
『松本龍平』
そして。
『……お前に何が分かる』
『……何も知らないくせに』
という、あの言葉だった。
(……なんであんな怒ったんだ?)
”本気で分からなかった”。
怒らせるつもりなんてなかった。
責めるつもりもなかった。
見下したつもりもない。
ただ。
事情を聞いて。
「ああ、そんなことがあったのか」
と思った。
だから。
相談できる場所はなかったのか。
助けてくれる人はいなかったのか。
そう思っただけだった。
(だってさ)
困ったら。
誰かに相談すればいいじゃないか。
一人で抱え込まなくていいじゃないか。
そう思った。
だから言った。
本当に、それだけだった。
(……相談すればよかったのにな)
ふと、そこで思考が止まる。
もし。
同じことが自分の身に起きたら。
拓海は少しだけ考えた。
家族に心配を掛けたくない。
友人に迷惑を掛けたくない。
エドワードにも。
ジョージにも。
余計な負担は掛けたくない。
だからきっと。
「大丈夫」
と笑う。
何とかなる。
平気だ。
そう言って終わらせる。
一人で処理する。
昔からそうだった。
(……あれ?)
ほんの一瞬だけ。
思考に小さな違和感が走る。
”相談すればいい”。
そう思っている。
なのに。
自分は相談しない。
(……まぁ、いっか)
結局、答えは出なかった。
拓海はいつも通り頭を掻きながら歩き出す。
自分が抱えている矛盾に気付かないまま。
****************
夜。
佐伯家。
夕食を終えたあと。
リビングでお茶を飲んでいた母・絢子の向かいへ、拓海はどかりと腰を下ろした。
「母さん。」
「なあに?」
「今日さ。」
少しだけ言い淀む。
「同期に怒られた。」
絢子は目を丸くした。
「あら。珍しい。」
「喧嘩じゃねぇぞ?」
拓海は苦笑する。
「誰かの苦労話になってさ。」
「うん。」
「俺、『役所とか相談できなかったのか?』って言ったんだよ。」
絢子は黙って続きを待った。
「そしたら。」
『……お前に何が分かる』
『……何も知らないくせに』
「って言われた。」
静かな沈黙。
拓海は困ったように笑う。
「俺、心配しただけなんだけどな。」
その一言に。
絢子は返事ができなかった。
息子は嘘をついていない。
本当に心配しただけなのだ。
だから難しい。
悪意があったなら簡単だった。
だが拓海は違う。
昔からそうだ。
困っている人を見ると放っておけない。
助けたいと思う。
信じたいと思う。
だからこそ。
時々、見えなくなる。
人にはそれぞれ違う景色が見えていることが。
「……その人には。」
絢子は静かに言った。
「その人にしか分からない事情があったのかもしれないわね。」
「だから事情は聞いたんだよ。」
拓海は首を傾げる。
「それでもさ。」
「何か方法はあったんじゃないかって。」
「俺なりに心配したんだけど。」
絢子は小さく頷いた。
「そうね。」
そして少し考えてから続ける。
「でもね、拓海。」
「世の中には。」
そこで言葉を探すように間を置いた。
「全部やっても、届かないことがあるの。」
「……?」
拓海は首を傾げる。
まだ分からない。
その言葉の重さが。
全部やった。
それでも届かなかった。
その意味が。
絢子はそれ以上説明しなかった。
説明できないからだ。
絢子自身もまた。
人生のどこかで守られてきた側の人間だった。
苦労を知らないわけではない。
けれど。
龍平のような人生を生きたことはない。
だから。
分かったような顔をして語る資格はないと思っていた。
「……まぁ、いいや。」
拓海は立ち上がる。
「明日も早いし。」
「制服にアイロン掛けて寝るわ。」
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
階段を戻っていく足音。
やがて部屋の扉が閉まる音。
静かになったリビングで。
絢子は一人、湯飲みを見つめていた。
(……あの子は。)
人を疑わない。
世界を信じている。
困っている人がいたら助けたいと思う。
そういう子だった。
そういう子になってほしいと願って育ててきた。
その願いは、今も間違っていたとは思わない。
けれど。
(少し、守り過ぎたのかもしれないわね。)
小さく息を吐く。
人を信じること。
世界を信じること。
それは美しい。
けれど。
これからあの子が進もうとしている場所は。
人間の悪意も。
理不尽も。
どうにもならない現実も。
嫌というほど目にする世界だ。
その時あの子は何を思うのだろう。
何を知るのだろう。
(でも。)
絢子は小さく微笑んだ。
それでも。
あの子には。
人を信じる心だけは失ってほしくなかった。
その光が誰かを救うことを。
母親として知っているから。
静かな夜のなか。
息子の部屋には、まだ明かりが灯っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




