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第四百九十五話 「過保護(ハミルトン)とは、世界を信じ切る大型犬の純粋さを守るため、その眩しさが地球の裏側の秀才を無自覚に傷つけるたび、誰にも見せず一人で代償を背負い続ける現象のことである」という話

最近バカ要素がない(´・ω・`)

夜。

ハミルトンホール本邸の執務室。


窓の外には、霧が降りていた。

イギリス特有の湿った空気が、古い石造りの屋敷を静かに包み込んでいる。


部屋の中にあるのは、積み上がった書類。


父の病状に関する報告。

グループ各社から上がってくる決裁。

そして、地球の裏側から届く、一通の週次報告書だった。


差出人は、ジョージ。


件名は、いつもの通り。


【今週のサエキ】


エドワード・ハミルトンは、しばらくその文字を見つめていた。


仕事の手を止める。

万年筆を置く。

カップの紅茶は、すでに冷めていた。


「……読もう」


短く呟いて、報告書を開く。


最初は、いつも通りだった。


警察学校での訓練。

走場訓練で相変わらず無駄に元気だったこと。

日本の規律に戸惑いながらも、覚えるのだけは早いこと。

同期たちの中で少し浮きながら、それでも妙に嫌われていないこと。

教場で腹が減ったと騒いだこと。

帰宅後、実家で母親に「警察学校って思ったより細かいな」と笑っていたこと。


エドワードは、その一つ一つを静かに読んだ。


画面の中にいる拓海は、相変わらずだった。


日本に帰っても。

警察学校に入っても。

自分の手の届かない場所へ行っても。


”佐伯拓海は、佐伯拓海のままだった”。


それは安心でもあり。

同時に、ひどく遠いことでもあった。


だが。


報告書の途中で、エドワードの指が止まる。

そこには、ジョージらしい冷静な文体で、ある出来事が記録されていた。


【教場で、生活や行政手続きに関する雑談がありました】


【その中でサエキは、同期に対して「相談すればよかったのに。

役所とか、支援とかあるだろ」と発言しました】


エドワードは、何も言わなかった。


ただ、画面を見つめる。


一行。

たった一行。


それだけで、十分だった。


嫌な予感は、ほとんど確信に近かった。

続く文章を読む前から、エドワードには分かってしまった。


タクミ。


君は、踏んだのだね。

その一番柔らかく、最も触れてはいけない場所を。


続く行には、こう記されていた。


【その直後、松本龍平くんが「……お前に、何が分かる」と発言】


【続けて、「それでも届かないことが、この世にはある。届かなかった人間もいる」

と告げ、教場を離れました】


エドワードは、ゆっくりと目を閉じた。


長い沈黙が落ちる。


執務室の時計の音だけが、静かに響いていた。


怒りはなかった。

驚きも、少し違う。

むしろ、ひどく納得していた。


”彼は怒って当然だ”。


そう思った。


松本龍平という男のことを、エドワードは直接知らない。


だが、報告書の断片だけで十分だった。


祖父母に育てられたこと。

経済的な事情。

四月入校を断念せざるを得なかったこと。

制度を調べ、役所へ足を運び、それでも届かなかったこと。


そういう人間に対して、拓海の言葉はあまりにも眩しすぎた。


「相談すればよかったのに」


それは、拓海にとっては善意だったのだろう。


責めたわけではない。

見下したわけでもない。

本当に、困っているなら誰かに相談すればいいと思っただけだ。


けれど。


その善意は、届かなかった者にとっては刃になる。

エドワードは、それを知っている。

知らないはずがない。


「……ジョージ」


通信を繋ぐ。


数秒後、端末の向こうで聞き慣れた声がした。


「はい、ハミルトン様」


「……彼は、怒って当然だ」


「ええ」


ジョージの声は、いつものように淡々としていた。


「僕もそう思います。松本くんから見れば、サエキのあの眩しさは、少々毒でしょうね」


「毒、か」


「はい。悪意がない分、余計に刺さります」


エドワードは、画面の文字をもう一度見る。


相談すればよかったのに。

役所とか。

支援とか。


タクミらしい。

本当に、あまりにもタクミらしい。


だからこそ、苦しい。


「タクミは知らない」


エドワードは低く呟いた。


「制度があっても届かない者がいることを。相談しても、頭を下げても、なお救われない者がいることを。金がないという一点だけで、人生の選択肢が一つずつ削られていく現実を」


「ええ」


「知らないまま、ここまで来た」


そこで一度、言葉が切れる。


そして、エドワードはゆっくりと続けた。


「……いや」


画面に映る報告書の文字が、かすかに滲んで見えた。

疲労のせいではない。


「私たちが、そうなるように守ってきた」


ジョージは何も言わなかった。

それが肯定だった。


十四歳で出会ってから、ずっとそうだった。


拓海は危うい。

人を疑わない。

悪意を見抜けない。

困っている者を見れば、ただ手を伸ばす。


だからエドワードは守った。


困る前に手を打った。

悪意が近付く前に排除した。

必要なものは用意した。

道は整えた。


拓海が世界を信じたまま生きていけるように、彼の周囲にある不具合を、

自分たちの力で一つずつ消してきた。


それは過保護だった。

分かっている。


美しい檻だった。

それも分かっている。


だが、その檻の中で拓海は、あのまま育った。


世界を信じる人間として。

人を疑わない人間として。

困ったら、誰かが助けてくれると信じられる人間として。


そのまばゆさに、エドワード自身が何度救われてきたか分からない。


タクミが笑えば、世界はまだ壊れていないように見えた。

タクミが「何とかなる」と言えば、本当に何とかなる気がした。


その光を失わせたくなかった。

だから守った。

守ってしまった。


そして今、その光が地球の裏側で、別の人生を歩いてきた男を傷付けた。


「……松本龍平は、タクミを嫌うだろうな」


「すでにかなり嫌っています」


ジョージが即答する。


エドワードは、ほんのわずかに眉を動かした。


「だが、彼が嫌っているのは、タクミ本人ではない」


「ええ。彼が拒絶しているのは、サエキが生きてきた世界です」


ジョージの声は静かだった。


「困れば手を差し伸べられ、失敗しても帰る場所があり、何かを選ぶ余裕があった世界。

松本くんが持てなかったものを、サエキは当たり前のように持っています」


「……分かっている」


「そしてサエキは、それを持っていることに気付いていない」


「分かっている」


それが一番痛かった。


タクミは自慢しない。

誇示しない。

自分が恵まれていることさえ、十分には分かっていない。


だから無邪気に言える。


相談すればいい。

頼ればいい。

何か方法があるはずだ。


それは正しい。

だが、正しさだけでは届かない場所がある。


そのことを、拓海は知らない。

知らないようにしてきたのは、自分たちだ。


「……ハミルトン様」


ジョージの声が、少しだけ柔らかくなる。


「それでも、僕は思いますよ。サエキは、あのままでよかったのだと」


エドワードは答えなかった。


「彼まで世界を疑うようになっていたら、それはもうサエキではありません」


「……そうだな」


ようやく、エドワードは小さく頷いた。


「彼まで現実の泥を知り、疑い、諦めることを覚えてしまったら……

それはもう、私の知るタクミではない」


けれど。


だからといって、傷付けられた者が消えるわけではない。


知らなかった。

悪気はなかった。

善意だった。


そんな言葉で、相手の痛みがなかったことになるわけではない。


松本龍平が受けたものは、確かに傷だった。

それもまた、否定してはいけない。


「ジョージ」


「はい」


「松本龍平を、引き続き見ておけ」


「承知しました」


「彼を排除する必要はない」


「ええ。するべきではないでしょうね」


「むしろ」


エドワードは、少しだけ息を吐いた。


「彼は、タクミがこれから知るべき現実の一つだ」


「厳しい先生ですね」


「そうだな」


エドワードは、目を伏せる。


「だが、必要だ」


タクミは一生、松本龍平にはなれない。

松本龍平もまた、タクミにはなれない。


互いの人生を本当の意味で理解することは、おそらくない。


それでも、同じ場所に立つことはある。


同じ教場で学び。

同じ制服を着て。

同じ警察官を目指す。


その時、拓海は初めて知るのだろう。


自分の善意が、誰かに届かないことがあると。

自分の「普通」が、誰かにとっては刃になることがあると。


「……彼は、タクミを嫌い続けるかもしれないな」


「可能性は高いですね」


「それでも、タクミは隣へ行く」


「でしょうね」


ジョージが、少し笑った。


「サエキですから」


その一言に、エドワードは目を閉じた。


そうだ。


タクミは行く。

嫌われても。

理由が分からなくても。

傷付けたことに戸惑いながらも。

それでも、きっとまた隣へ行く。


そういう男だからだ。


そして、そのたびに松本龍平は傷付くかもしれない。

腹を立てるかもしれない。

拒絶するかもしれない。


それでも。

いつか、彼も気付くだろうか。

タクミは理解できないまま、逃げない男なのだと。


「……ジョージ」


「はい」


「頼む」


エドワードは、声を落とした。


「タクミを嫌いにならないでくれ、と言う資格は私にはない」


通信の向こうで、ジョージが黙る。


エドワードは続けた。


「だが、どうか」


一拍。


「タクミから目を逸らさないでくれ」


それは、松本龍平へ向けた言葉だった。


届くはずのない言葉。

それでも、言わずにはいられなかった。


通信は静かに切れた。

執務室に、また時計の音だけが戻ってくる。


エドワードはしばらく、画面の中の報告書を見つめていた。


【……お前に、何が分かる】


その一文は、拓海へ向けられたものだった。

けれど同時に、エドワード自身にも向けられているように思えた。


何が分かる。


そうだ。


自分にも、本当の意味では分からない。

金がないことで選択肢を削られ続ける人生も。

制度の狭間で届かなかった者の痛みも。

松本龍平が抱えてきたものも。


分かったふりなどできない。


ただ一つ分かるのは。


拓海のまばゆさは、誰かを救う。

そして同じだけ、誰かを傷付けることがある。


その事実だけだった。


エドワードは冷えた紅茶へ手を伸ばす。


口をつけず、すぐに戻した。


窓の外の霧は、さらに深くなっている。


「……タクミ」


誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。


「君はまた、知らないまま人を傷付けたのだね」


責める言葉ではなかった。

嘆きでもない。

ただ、ひどく静かな確認だった。


そして、その拓海をそう在らせた檻を作った一人として。


エドワード・ハミルトンは、その夜もまた、誰にも見えない場所で、

胃の痛むような代償を一人で引き受けるのだった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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