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第四百九十四話 「断絶(システム)とは、何気ない雑談のなかで、自分には決して持てなかった「世界を信じる前提」に触れた瞬間、積み上げてきた理性の防壁が静かに軋み始める現象のことである」という話

でしょうね!

十一月中旬。

警視庁警察学校。

夕方の教場には、昼間の熱がまだ少しだけ残っていた。


走り込みのあとに床へ落ちた汗の匂い。

机を動かす音。

誰かが規律本を閉じる音。

自動販売機へ向かう足音。


訓練中の張り詰めた空気はもうない。

教官が出ていったあと、同期たちはそれぞれの場所で、短い自由時間を過ごしていた。


疲れた、と誰かが呟く。

腹減った、と別の誰かが返す。

風呂が先だろ、いや洗濯だろ、とくだらない話が続く。


それは、警察学校に入ったばかりの頃にはなかった空気だった。


少しだけ打ち解けて。

少しだけ互いを知って。

それでもまだ、踏み込みすぎない距離を保っている。


そんな時間だった。


松本龍平は、教場の端で規律本を閉じた。


今日の復習は終わっていない。

だが、文字を追う気になれなかった。

数日前から、頭のどこかにずっと残っているものがある。


佐伯拓海。


あの男の言葉。

表情。

距離感。


そして、あの何も知らない顔。


嫌な奴ではない。

それは分かっている。

分かってしまった。

だからこそ厄介だった。


悪意があれば切り捨てられる。

見下しているなら軽蔑できる。

同情してくるなら拒絶すればいい。


だが、佐伯拓海はそのどれでもない。


ただ、知らない。

自分がどれほど恵まれた場所に立っているかを知らない。

知らないまま、世界を信じている。


そのことが、龍平にはどうしても飲み込めなかった。


少し離れた場所で、同期たちが雑談をしていた。

最初は本当に、何でもない話だった。


誰かの知り合い。

別の班の同期。

親の介護。


仕事を辞めたこと。

役所へ行ったこと。

制度があっても、結局どうにもならなかったこと。

そんな、世の中にいくらでも転がっている話だった。


「大変だったらしいな」


「そういうのって、結局本人が動くしかないんだろ」


「親のこととか、家のこととか、逃げられないもんな」


「世の中、綺麗事だけじゃ済まないよな」


誰も笑っていない。

面白がってもいない。

ただ、現実の重さを少しだけ分け合うように、低い声で話していた。


龍平は、黙って聞いていた。


関わるつもりはない。

自分の話でもない。

それでも、耳が勝手に拾ってしまう。


介護。

役所。

制度。

相談。

どれも、知っている言葉だった。


知りたくて知った言葉ではない。

知らずに済むなら、その方が良かった言葉だ。


その時だった。


「でもさ」


明るい声が、何気なく会話の隙間へ入ってきた。


佐伯拓海だった。


拓海はマヨネーズのボトルを片手に、規律本を開いたまま、当たり前のような顔で言った。


「相談すればよかったのにな」


龍平の視線が止まる。

拓海は気付いていない。

ただ、本当に思ったことを言っただけだった。


「役所とかさ。支援とかあるだろ?」


教場の空気が、ほんの少しだけ止まった。


誰かが曖昧に笑う。

誰かが視線を逸らす。

拓海は不思議そうに首を傾げる。


「いや、困ってたならさ。そういう所に言えば、何かしら教えてくれるんじゃねぇの?」


悪意はない。

責めているわけでもない。

その人の努力が足りなかったと言いたいわけでもない。


龍平には、それが分かった。

分かってしまった。

だから、胸の奥が冷えていく。


まただ。


あの日と同じだった。

自分に向けて言われた言葉ではない。

話題になっているのは、龍平ではない。


それでも、拓海の言葉は同じ場所から出ている。


困ったら相談すればいい。

制度があるなら使えばいい。

国や役所は、困っている人間を助けるためにあるはずだ。


そういう世界を、”拓海は信じている”。


信じて疑っていない。


龍平はゆっくり目を伏せた。


違う。

そうじゃない。


みんなやる。

相談もする。

調べる。

頭も下げる。

頼れるものには全部頼る。

役所にも行く。

窓口にも並ぶ。

番号札を握って、硬い椅子に座って、蛍光灯の下で何時間も待つ。

書類を書く。

印鑑を押す。

必要だと言われたものを揃える。

別の窓口へ行けと言われれば行く。

対象外だと言われれば、別の制度を探す。

条件が足りないと言われれば、どうすれば足りるのかを聞く。


「何かありませんか」と尋ねる。


「こちらでは難しいですね」と返される。


それでも、また調べる。

また行く。

また頭を下げる。


そうしなければ、生きていけないからだ。

そうしなければ、目の前の生活が止まるからだ。


だからみんなやる。

できることは全部やる。


それでも。

”それでも届かないことが、この世にはある”。


手を伸ばしているのに。

あと少しで届きそうに見えるのに。

どうしても指先がかからない場所がある。


『制度が存在することと、自分が救われることは、同じではない』


救済という言葉があることと、それが自分の生活まで降りてくることは、同じではない。


龍平は、それを知っている。

知りたくなかった。

知らずに済む人生なら、その方が良かった。

だが、知ってしまった。


だからこそ、拓海の言葉は眩しすぎた。


胸の奥で、何かが静かに軋む。


違う。

お前は世界を信じられたんじゃない。

信じても、裏切られなかったんだ。


その言葉が頭に浮かんだ瞬間、龍平は自分で自分に腹が立った。


そんなことを考える人間にはなりたくなかった。

誰かを羨むような人間にはなりたくなかった。

自分の不運を、他人の幸福にぶつけるような人間にはなりたくなかった。


それなのに。


拓海を見ていると、どうしても考えてしまう。

もし、自分がああいう場所で育っていたら。

困った時に、人を頼ることを覚えていたら。

世界を疑う前に、助けを求めることができる人生だったなら。


”自分は、今とは違う人間になっていたのだろうか”。


そんな馬鹿げた仮定が、一瞬だけ頭をよぎる。


龍平は拳を握った。

爪が掌に食い込む。


拓海はまだ分かっていない。

分からないまま、続ける。


「俺、困った時は聞いた方がいいと思うんだよ」


その一言だった。


それは拓海にとって、たぶん優しさだった。


”困っている人間を放っておけない”。


何か方法があるなら探せばいい。

そういう、ごく自然な善意だった。


だが龍平の中では、その善意がひどく遠かった。


遠すぎて。

届かなくて。

その遠さに、息が詰まった。


気付けば、口が動いていた。


「……お前に、何が分かる」


教場が静まり返った。


拓海が振り返る。


「え?」


本当に分かっていない顔だった。

その顔を見た瞬間、龍平の中で何かが落ちた。


ああ。


本当に分からないのだ。

この男は、何も知らない。


知らないまま、善良でいられる。

知らないまま、正しいことを言える。

知らないまま、誰かの一番深いところへ踏み込める。


龍平はゆっくり息を吐いた。


怒鳴るつもりはなかった。

怒鳴っても意味がない。

この男はきっと、怒鳴られた理由を理解できない。


だから、声は低くなった。

自分でも驚くほど静かな声だった。


「……みんな、やる」


拓海が黙る。

周囲の同期たちも、誰も動かない。


「相談もする」


「調べる」


「頭も下げる」


「頼れるものには、全部頼る」


言葉にするたび、あの頃の記憶が喉の奥から上がってくる。


言いたくなかった。

自分の話ではない。

これは今、別の誰かの話だ。

それでも、自分の中の何かが止まらなかった。


「それでも」


一拍置く。


教場の空気が、重く沈む。


「それでも届かないことが、この世にはある」


龍平は、静かに拓海を見た。


「届かなかった人間もいる」


その言葉だけが、教場に残った。


拓海は何も言わなかった。

言えなかったのかもしれない。


いつものように「そうなのか」とも、「悪かった」とも言わない。

ただ、目を丸くしたまま立っていた。


初めて、目の前の相手の重さを、自分の言葉では受け止めきれないという顔だった。


龍平はそれ以上言わなかった。


言えば、もっと出てきてしまう。

出てきたものは、きっと戻せない。


だから鞄を持った。

机の横を抜ける。


誰も止めない。

拓海の横を通り過ぎる時も、振り返らなかった。


廊下へ出る。

夕方の冷たい空気が、頬に触れた。


窓の外には、ほとんど暗くなりかけたグラウンドが見える。


昼間、あれほど声が響いていた場所が、今は嘘のように静かだった。

龍平は歩きながら、自分の呼吸を整えた。


言ってしまった。


”お前に何が分かる”。


そう言ってしまった。

言うつもりはなかった。


あんな言葉を口にするつもりはなかった。


けれど、もう遅い。


悪い人間ではない。

それは分かっている。


佐伯拓海は、たぶんいい奴なのだろう。

困っている人間を見れば手を伸ばす。

落ち込んでいる人間を見れば声を掛ける。


世界に助けがあると信じている。

人は助け合えると信じている。


そのこと自体は、きっと間違っていない。


けれど。

その正しさが届かない場所に、自分はいた。

その正しさで救われなかった人間を、龍平は知っている。


自分自身がそうだった。


だから苦しかった。

あの男の明るさが。

善良さが。

何も知らないまま真っ直ぐに差し出される手が。

その”傲慢な無知の優しさ”が。


自分にはどうしようもなく、痛かった。


廊下の先へ歩きながら、龍平は目を伏せる。


『羨ましかったのかもしれない』


そう思った瞬間、胸の奥がひどくざらついた。


認めたくなかった。

そんな感情に名前を付けたくなかった。

だから、別の名前を探した。

もっと扱いやすくて。

もっと自分を守れる名前。


『嫌い』


その言葉だけが、静かに胸の奥へ落ちた。


佐伯拓海が嫌いだ。


悪い奴じゃないと分かっている。

何も知らないだけだと分かっている。


それでも。

だからこそ。

龍平は、その名前を胸の奥で強く握りしめた。


嫌いだ。


『あいつが、嫌いだ』


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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