第四百九十三話 「災害とは、悪意で世界を壊す者ではなく、100%の善意のまま、誰かが積み重ねた「諦め」という防衛網を踏み越えてしまう現象のことである」という話
こういうのやってると長くなるのは解っているんだ・・・
十一月中旬。
警視庁警察学校。
吐く息は白く、朝晩の冷え込みも日に日に厳しくなっていた。
入校から一か月あまり。
厳しい訓練にも少しずつ身体が慣れ始め、同期たちの間にも、
それぞれの距離感が出来上がりつつあった。
誰と誰が一緒にいることが多いのか。
誰が班をまとめるのか。
誰が教官に目を掛けられているのか。
閉じられた教場という小さな世界は、ゆっくりと形を作り始めている。
その中で。
松本龍平だけは、少しだけ違った。
以前なら他人など見なかった。
興味もなかった。
必要最低限話し、必要最低限関わる。
それだけで十分だった。
それなのに最近は違う。
気付けば視界のどこかに、佐伯拓海という男が映っている。
見ようとしているわけではない。
なのに目が追ってしまう。
そのこと自体が、龍平には少し腹立たしかった。
****************
朝。
教場の扉が勢いよく開く。
「おはよう!!」
一番最初に響く声は今日も同じだった。
「寒ぃな! バカ!」
数人が笑う。
数人が呆れたように笑い返す。
誰も驚かない。
もう慣れてしまった。
龍平は規律本を開きながら、その光景を横目で眺めていた。
昨日まであれだけ厳しい訓練をしていた人間とは思えない。
疲れた様子もない。
落ち込んだ様子もない。
引きずっている様子もない。
昨日は昨日。
今日は今日。
そんな風に、本気で切り替えている。
(……羨ましい。)
そう思った自分に、龍平は少しだけ眉を寄せた。
違う。
羨ましいんじゃない。
理解できないだけだ。
****************
昼休み。
同期の一人が小さくため息を吐いていた。
午前中の訓練で思うように動けなかったらしい。
誰も何も言わない。
慰めても仕方がない。
そんな空気だった。
その沈黙の中へ、拓海がいつもの調子で入り込む。
「気にすんなって。」
「次できりゃいいじゃん。」
笑いながら、それだけ言う。
根拠なんてない。
励ますための立派な言葉もない。
それでも、不思議と相手は笑っていた。
龍平はその横顔を見つめる。
(どうして。)
どうしてそんな簡単に言える。
「次がある。」
その一言を信じられる人間だったのだろう。
自分は違った。
次なんて無いことの方が多かった。
失敗すれば終わり。
金が無ければ終わり。
頼る相手がいなければ終わり。
そういう現実の中で生きてきた。
だから「次」という言葉は、龍平にとっては希望ではなく、運のいい人間だけが口にできる言葉だった。
****************
掃除の時間。
拓海は自分の担当を終えると、当たり前のように別の場所へ歩いていく。
誰かがまだ終わっていない。
だから手伝う。
ただそれだけ。
「終わった?」
「まだ?」
「じゃあ俺やる。」
それだけ言って、また笑う。
見返りなんて求めていない。
終われば何事もなかったように自分の荷物を持って帰る。
龍平は箒を動かしながら思う。
(……何で。)
何でそんなことが出来る。
昔の自分なら。
「ありがとう。」
と言われても、素直には受け取れなかった。
借りを作るくらいなら、一人でやる。
そうやって生きてきた。
頼れば迷惑を掛ける。
助けられれば返さなければならない。
そんな当たり前が、自分の中にはずっとあった。
なのに目の前の男は違う。
手伝う。
終わる。
笑う。
それで終わり。
何も残さない。
そんな人間が、本当にいるのか。
****************
帰り支度をしながら、拓海は同期たちと笑っていた。
何でもない話だった。
昼飯の話。
休日の話。
テレビの話。
他愛もない。
それでも教場のあちこちから笑い声が聞こえる。
龍平は静かに鞄へ規律本をしまった。
耳を塞ぎたいわけではない。
けれど、自然と聞こえてくる。
拓海は誰に対しても同じだった。
教官にも。
同期にも。
年上にも。
年下にも。
誰かを選ばない。
誰かを見下さない。
誰かを疑わない。
だからこそ。
あの日の一言が頭から離れなかった。
「制度とか無かったのか?」
悪意はなかった。
責めてもいなかった。
本当に知らなかっただけだ。
”世界には、困れば助けてもらえる場所がある”。
そう信じている人間の言葉だった。
龍平はゆっくり息を吐いた。
その言葉を思い出すたび、不思議な気持ちになる。
腹が立つ。
でも、それだけではない。
もし。
もし自分が、佐伯拓海と同じ場所で育っていたら。
困った時に人を頼ることを覚えていたら。
世界をそこまで信じられる人間だったなら。
自分は今とは違う人生を歩いていたのだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
龍平は小さく首を振った。
考えても仕方がない。
『そんな「もし」は存在しない』
自分は自分だ。
佐伯拓海は佐伯拓海だ。
立ってきた場所が違う。
それだけの話だ。
……それだけの話のはずなのに。
どうして、こんなにも目が離せない?
龍平は教場を出る拓海の背中を見つめた。
大きな背中だった。
何も知らない。
だからこそ真っ直ぐ歩いていける。
その眩しさが
今日も少しだけ、胸の奥をざらつかせた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




