第四百九十二話 「断絶とは、すべてを尽くしても届かなかった現実と、「制度とかあったんじゃない?」という悪意なき善意が交わった瞬間、互いの世界が決定的に噛み合わなくなる現象のことである」という話
最近バカ成分が足りない(´・ω・`)
十一月上旬。
警視庁警察学校。
日が落ちるのが早くなった。
夕方の教場は、昼間とは違う静けさを纏っている。
訓練中に響いていた教官の声も、机を鳴らす音も、同期たちの返事も、今はもうない。
窓の外には、薄く赤い夕焼けが残っていた。
その色も、じきに夜へ沈む。
教官が出ていったあと、張り詰めていた空気は少しだけほどけた。
寮生は寮へ、通学生は家へ帰る、そんな賑やかさを纏った空気があった。
「風呂行くか」
「先に洗濯だろ」
「今日の走り込み、マジできつかったな」
「早く帰って飯食いてえ」
同期たちが、思い思いに教場を出ていく。
廊下へ流れていく足音。
笑い声。
疲れたようなため息。
そういうものが、少しずつ遠ざかっていった。
松本龍平は、自分の席から動かなかった。
机の上には規律本が開かれている。
けれど、一文字も頭に入ってこない。
ページを見ているだけだった。
文字の列を目で追っているふりをしながら、頭の中では、さっきの会話を何度もなぞっていた。
同い年。
二十四歳。
十月入校。
そして、二年の遅れ。
同期たちの雑談は、本当に何気ないものだった。
誰かが佐伯の年齢を聞いた。
佐伯が二十四だと答えた。
自分と同じだと言われた。
大学の話になった。
二年遅れた理由の話になった。
そこで佐伯は、あの顔で笑った。
”親友と同じ学年で大学へ行きたかったから”。
せっかくだし。
一緒の方が楽しいだろ。
その言葉が、まだ耳に残っている。
佐伯拓海は、何も悪いことを言っていない。
龍平にもそれは分かっていた。
友人を大事にした。
同じ時間を過ごしたかった。
そのために二年を使った。
それは、佐伯にとってはきっと大切な選択だったのだろう。
悪いことではない。
間違ってもいない。
けれど。
龍平は、どうしてもその言葉をうまく飲み込めなかった。
二年。
たった二年。
そう言える人間もいるのだろう。
だが、自分にとっての二年は、そんな柔らかいものではなかった。
祖父がいなくなったあと、祖母の生活を少しでも楽にしたかった。
進学を諦めたかったわけではない。
大学へ行きたかった。
それでも、目の前の生活があった。
働かなければならなかった。
自分が動かなければ、家の中のことは止まってしまう。
そう思っていた。
いや、実際そうだった。
役所へ行った。
書類を書いた。
待合室で番号札を握っていた。
蛍光灯の白い光。
硬い椅子。
壁に貼られた制度の案内。
窓口の向こうで繰り返される説明。
「こちらでは」
「対象外です」
「条件が」
「必要書類が」
「一度確認を」
その言葉の一つ一つを、龍平は今でも覚えている。
忘れたくても忘れられない。
相談した。
調べた。
何度も足を運んだ。
それでも、何か一つを進めるたびに、別の何かが足りなくなった。
時間。
金。
人手。
保証人。
手数料。
交通費。
そういう小さなものが、少しずつ削っていく。
大きな悲劇ではない。
けれど、人は大きな悲劇だけで折れるわけではない。
小さな不足が何度も積み重なって、ある日、選べるはずだった道が消える。
龍平にとっての二年は、そういうものだった。
だからこそ、佐伯の二年が理解できなかった。
『羨ましいのかもしれない。』
そう思った瞬間、龍平は規律本の端を強く掴んだ。
”羨ましい”。
そんな言葉で片付けたくなかった。
自分が惨めになるだけだからだ。
「松本」
背後から声がした。
龍平は振り返らなかった。
聞き慣れた声だった。
軽い足音。
遠慮のない呼び方。
迷いのない距離。
佐伯拓海。
来た。
そう思った。
拓海は机の横まで来ると、少しだけ躊躇ったように立ち止まった。
いつものように勢いよく話しかけてくるわけではなかった。
それが逆に、龍平の胸の奥を冷たくした。
「……何ですか」
「さっきの話」
やはり来た。
龍平はゆっくり顔を上げる。
拓海は少し困ったような顔をしていた。
けれど、その目には悪意がない。
本当に、何かを気にしているだけの目だった。
「お前、大変だったんだろうな」
その言葉は、思っていたより静かだった。
同情。
慰め。
気遣い。
どれにも聞こえる。
どれでもないようにも聞こえる。
龍平は短く息を吐いた。
「……別に」
それで終わらせるつもりだった。
これ以上踏み込まれたくない。
説明したくない。
分かってほしいとも思っていない。
だから話を切る。
いつものように。
けれど拓海は、そこで終わらなかった。
頭を掻く。
少し考える。
そして、ゆっくりと言った。
「一個だけ、気になったんだけどさ」
龍平は返事をしなかった。
「家の事情って言ってたよな。それで働いてたんだろ?」
その単語で、龍平の中の時間が一瞬だけ止まった。
「……そういう時って、役所とか相談するとこって使えなかったのか?」
静かな教室に、その言葉だけが落ちた。
拓海の声は、驚くほど普通だった。
責める色はない。
見下す響きもない。
自分ならもっと上手くやれたと言いたいわけでもない。
ただ本当に、不思議に思っている。
そういう声だった。
龍平は、拓海を見た。
拓海もこちらを見ている。
真っ直ぐだった。
あまりにも真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさが、龍平には少し痛かった。
制度。
役所。
救済。
そういうものが、本当に必要な場所へ届くと信じている人間の目だった。
困った人間には、困った人間のための道が用意されている。
世界はそこまで冷たくない。
きっと、そう信じている。
だから聞けるのだ。
”使えなかったのか、と”。
龍平は、喉の奥が乾くのを感じた。
利用した。
全部ではないかもしれない。
それでも、自分にできる範囲のことはした。
窓口にも行った。
相談もした。
書類も書いた。
紹介された制度も読んだ。
それでも届かなかった。
届かないものは、届かなかった。
制度が存在することと、自分が救われることは違う。
説明しようと思えば、いくらでも言葉は出てくる。
だが、その言葉を拓海へ渡したところで、何かが変わる気はしなかった。
この男は、きっと聞くだろう。
真剣に聞くだろう。
そして、本気で考えるだろう。
もっと方法があったんじゃないか。
他に頼れる場所があったんじゃないか。
誰かに相談できたんじゃないか。
そうやって、善良に考える。
その善良さが、”今は一番遠かった”。
「……利用しました」
龍平は短く答えた。
それだけで十分だった。
十分にしたかった。
拓海は目を丸くした。
「そうなのか」
本当に驚いた顔だった。
その顔を見た瞬間、龍平の胸の奥で、何かが静かに冷えていった。
怒りではなかった。
まだ怒りではない。
もっと静かなものだった。
『ああ。この人は知らないのだ』
龍平は、そう思った。
自分がどれだけ説明しても、この人はたぶん最後まで分からない。
分かろうとはするだろう。
それは分かる。
きっと真剣に聞く。
変な茶化し方もしない。
同情で済ませようともしない。
けれど、それでも届かない。
この人は、困った時に誰かが手を差し伸べてくれる世界で生きてきた。
少なくとも、龍平にはそう見えた。
”恵まれている”。
その言葉は、少し嫌だった。
人の人生を簡単に決めつける言葉だからだ。
けれど、今の龍平には、それ以外の言葉が見つからなかった。
拓海が悪いわけではない。
それも分かっている。
彼はただ、自分の知らないことを知らないだけだ。
だからこそ、残酷だった。
「それでも駄目だったのか?」
拓海が小さく呟いた。
責めていない。
ただ、驚いている。
世界がそうなっていることを、本気で不思議がっている。
龍平は規律本を閉じた。
ぱたり、と乾いた音がした。
「……そういう問題ではありません」
それだけ言った。
拓海が何かを言いかける。
だが龍平は、それを待たなかった。
規律本を鞄へ入れる。
椅子を引く。
立ち上がる。
拓海の横を通り過ぎる。
教室を出るまで、振り返らなかった。
廊下には夕方の光が残っていた。
窓の外のグラウンドには、誰もいない。
昼間あれほど響いていた声が嘘のように消えている。
龍平は歩きながら、少しだけ息を吐いた。
悪い人ではない。
むしろ、きっといい人なのだろう。
だから困る。
悪意があるなら、拒絶できる。
見下しているなら、軽蔑できる。
同情しているなら、切り捨てられる。
けれど佐伯拓海は違う。
”知らないだけ”だ。
知らないまま、ここまで来られただけだ。
自分が置かれた檻のことも。
制度があっても届かない場所があることも。
救済の言葉が、時に人を余計に追い詰めることも。
何も知らない。
知らないから、あんなに真っ直ぐな顔で聞ける。
制度はなかったのか。
役所は。
救済は。
その言葉は、龍平にとって責められるよりも遠かった。
分かってもらえない。
それはまだいい。
世の中に、自分を分かってくれる人間など最初から多くない。
だが、佐伯拓海は違う。
この男は、分かろうとしてくる。
分かろうとして、悪気なく踏み込んでくる。
そのうえで、きっと分からない。
それが一番厄介だった。
同じ二十四歳。
同じ警察学校。
同じ十月入校。
それでも、自分たちは同じ場所には立っていない。
龍平は廊下の先へ歩いていく。
胸の奥に残った冷たさは消えない。
それは怒りではない。
まだ、嫌悪と呼ぶにも早い。
ただ。
佐伯拓海という人間が、自分とは決定的に違う世界から来たのだという事実だけが、
静かに、重く、胸の中へ沈んでいった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




