第四百九十一話 「因果とは、同じ二十四歳という座標に立つ二人が、それぞれまったく違う理由で二年の時間を抱え、その重さの違いに片方だけが静かに傷付いていく現象のことである」という話
そんなもんよな
十月下旬。
警視庁警察学校。
夕方の訓練が終わり、教場には短い休憩時間が訪れていた。
走り込みのあとだった。
教官の「解散」という声が響いた瞬間、同期たちはそれぞれ床や椅子へ崩れるように座り込んだ。
誰もが汗をかいていた。
制服の襟を少しだけ緩める者。
水筒を取りに行く者。
黙って天井を仰ぐ者。
それぞれが疲労を誤魔化すように、どうでもいい話を始める。
警察学校へ入って、もうすぐ一ヶ月。
最初の頃のような固い緊張は少し薄れ、同期同士の会話にも、
ようやく冗談のようなものが混じるようになっていた。
「なぁ、佐伯」
同期の一人が、床に座ったまま顔を上げた。
「お前、結局何歳なんだよ」
「俺?」
拓海はタオルで汗を拭きながら、あっさり答えた。
「二十四」
「え、マジで?」
「マジ」
「松本と同い年じゃん」
その名前が出た瞬間、教場の隅で規律本を開いていた龍平の指が、ほんの少しだけ止まった。
”同い年”。
それは初めて知った。
佐伯拓海という男は、龍平から見ると、どこか年齢不詳だった。
幼いわけではない。
むしろ体格も良く、物怖じもしない。
だが、妙に無邪気で、何かを疑う前に笑って踏み込んでくる。
だから、てっきり年下だと思っていた。
”大学を出て、そのまま十月入校した海外帰りの二十二歳”。
そんなところだろう、と勝手に思っていた。
だが違った。
二十四。
自分と同じ年齢だった。
「松本も二十四なのか?」
拓海がこちらを見る。
龍平は短く答えた。
「……そうです」
「へぇ」
拓海は少し驚いたように笑った。
「同い年か」
その笑顔に、龍平は返事をしなかった。
同い年。
同じ十月入校。
同じ教場。
そこだけ見れば、二人は同じ場所に立っている。
だが、龍平はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれるのを感じていた。
同じ場所にいる。
それは事実だ。
”けれど、本当に同じなのか”。
そんな問いが、まだ形にならないまま、静かに沈んでいく。
「大学は?」
別の同期が、何気なく話を続けた。
「松本は国立だっけ?」
「……都内の大学です」
「やっぱ頭いいなぁ」
「佐伯は?」
「イギリスの大学」
拓海は何でもないことのように答えた。
教場の数人が、少しだけ反応する。
「やっぱ海外帰りって本当なんだな」
「英語ペラペラ?」
「まぁ、生活してたからな」
「すげぇな」
「すごくはねぇよ」
拓海は本当に不思議そうに首を傾げた。
「向こうにはもっとすごい奴いっぱいいたし」
その言い方にも嫌味はなかった。
自慢でもない。
ただ、見たものをそのまま言っているだけだった。
龍平は黙って聞いていた。
イギリスの大学。
海外生活。
同じ二十四歳。
その情報が、少しずつ胸の奥へ積み重なっていく。
やがて、誰かが何の気なしに笑った。
「でもさ、二人とも二十四ってことは、何かしら二年遅れてるんだろ?」
空気が、一瞬だけ変わった。
ほんの少しだけ。
たぶん、誰も気付かない程度に。
だが龍平だけは、その問いに呼吸が浅くなるのを感じた。
二年。
その言葉には、重さがあった。
少なくとも、龍平にとっては。
「佐伯は何で?」
先に聞かれたのは拓海だった。
拓海は少し考えるように視線を上げ、それからいつもの調子で答えた。
「親友と同じ学年で大学行きたかったから」
教場が、少しだけ静かになった。
「……は?」
誰かが間の抜けた声を出した。
拓海は笑う。
「俺、向こうのパブリックスクール出たあと、一回日本に戻ってたんだよ」
「高校卒業して?」
「そう。で、二年くらい日本にいて、それからまた向こうの大学に行った」
「なんで?」
「だから、親友が大学入るタイミングに合わせたんだって」
拓海は、本当に何でもないことのように言った。
「そいつと同じ学年で大学行きたかったんだよ。せっかくだし」
”せっかくだし”。
その言葉が、龍平の中で静かに止まった。
拓海は続ける。
「向こうで一緒に過ごすなら、同じ学年の方が面白いだろ」
「え、二年待ったってこと?」
「待ったっていうか、まぁそうなるな」
「すげぇな、それ」
「そうか?」
拓海はまた首を傾げた。
「別に。その間、日本にいただけだし」
特別な苦労でもない。
大きな決断でもない。
人生を削ったとも思っていない。
拓海の声音には、そういう軽さがあった。
そして、その軽さが、龍平には信じられなかった。
二年。
龍平にとっての二年は、そんなものではなかった。
祖父がいなくなったあと、祖母の生活を少しでも楽にしたかった。
だから働いた。
進学を諦めたわけではない。
諦めたくなかった。
それでも、目の前の生活があった。
金が必要だった。
誰かがやらなければならないことがあった。
年老いた祖母もいた。
介護や病院の事もあった。
出来ることはないものかと探し回った。
それでも、どうにもならないものはあった。
何か一つを選ぶたびに、別の何かが削られていった。
それが龍平にとっての二年だった。
けれど、拓海は違う。
親友と同じ学年で大学へ行きたかった。
せっかくだから。
それだけの理由で、二年を使った。
”使えた”。
その違いが、あまりにも大きかった。
龍平は何も言わなかった。
言う必要もなかった。
周囲はまだ、拓海の話に笑っている。
「お前、変な理由で二年使ってんな」
「そうか?」
「普通しないだろ」
「でも一緒の方が楽しいだろ」
「楽しいかどうかで決める話か?」
「大事だろ」
拓海は笑っていた。
その笑顔に曇りはない。
自分がどれほど恵まれた選択を口にしているのか、きっと分かっていない。
分かっていないから、そんな顔で笑える。
龍平は規律本へ視線を落とした。
文字が目に入らない。
ただ、ページの白さだけが見える。
同じ二十四歳。
同じ十月入校。
同じ教場。
けれど、その場所へ辿り着くまでに抱えてきた二年は、まるで違う。
それを比べること自体が無意味だ。
そんなことは分かっている。
人には人の事情がある。
佐伯拓海が悪いわけではない。
親友と同じ学年で大学へ行きたかった。
それも、彼にとっては大切な理由だったのだろう。
頭では、そう処理できる。
できるはずだった。
それでも。
胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。
そんな理由で。
そんな理由で二年を使える人間がいる。
それは怒りではなかった。
まだ怒りではない。
ただ、理解できなかった。
理解できないものを見せられた時の、冷たい沈黙だった。
「松本は?」
誰かが軽く聞いた。
龍平は顔を上げる。
一瞬だけ、答えに詰まった。
本当のことを言う必要はない。
適当に流せばいい。
家庭の事情です。
それだけで済む。
だが、拓海がこちらを見ていた。
悪意のない目だった。
ただ知りたいだけ。
同じ二十四歳だと分かって、ただ興味を持っているだけ。
その視線が、なぜかひどく苦手だった。
「……一度働いていたので」
龍平は短く答えた。
「家の事情で」
それ以上は言わなかった。
言いたくなかった。
教場の空気が少しだけ静かになる。
誰かが「ああ」と曖昧に頷いた。
その程度でいい。
深く聞かれたくない。
そう思った時だった。
「そっか」
拓海が言った。
思ったよりも静かな声だった。
龍平はほんの少しだけ警戒した。
同情されるのは嫌だった。
慰められるのも嫌だった。
だが拓海は、それ以上何も言わなかった。
ただ、
「じゃあ同い年だな」
と笑った。
それだけだった。
龍平は返事をしなかった。
返せなかった。
拓海に悪気はない。
それは分かる。
今の言葉にも悪意はない。
むしろ、妙な詮索をしなかっただけ、まだましなのかもしれない。
それでも、胸の奥に残った棘は消えなかった。
同い年。
同じ二年遅れ。
それなのに、理由はまるで違う。
拓海にとっての二年は、親友と並ぶための時間だった。
龍平にとっての二年は、生きるために削った時間だった。
その違いを、拓海は知らない。
そして、知らないまま笑っている。
そのことが、龍平にはどうしても受け入れられなかった。
夕方の教場に、また他愛のない会話が戻っていく。
誰かが明日の訓練の愚痴を言い、別の誰かが腹が減ったと笑う。
拓海もその輪の中で、いつも通りに笑っていた。
龍平だけが、少し離れた場所で規律本を開いたまま、さっきの言葉を何度も反芻していた。
親友と同じ学年で大学へ行きたかったから。
せっかくだし。
一緒の方が楽しいだろ。
そのどれもが、龍平の人生には存在しない言葉だった。
嫌な奴ではない。
佐伯拓海は、たぶん嫌な奴ではない。
それはもう分かっている。
だからこそ、余計に厄介だった。
嫌な奴なら、嫌えばいい。
自慢する奴なら、見下せばいい。
人の苦労を笑う奴なら、軽蔑すればいい。
だが拓海は違う。
何も知らないだけ。
恵まれていることに気付いていないだけ。
自分の選択が、誰かから見ればどれほど眩しく、どれほど残酷に聞こえるのか、
まったく分かっていないだけ。
だから龍平は、まだ言葉にできなかった。
ただ、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
その軋みは、この日から少しずつ積もっていくことになる。
まだ怒りではない。
まだ憎しみでもない。
ただの、理解できなさ。
けれど、それは確かに、松本龍平が佐伯拓海という男を「嫌いになる」ための、
最初の小さな亀裂だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




