第四百九十話 「理由とは、『まだ話していない』だけで大型犬が笑って踏み込み、秀才が築いてきた境界線を静かに揺らしていく現象のことである」という話
僕は龍平君タイプです(。-`ω-)
十月下旬。
警視庁警察学校。
入校から三週間が過ぎた頃には、教場を包んでいた張り詰めた緊張も、
ほんの少しだけ形を変え始めていた。
もちろん、楽になったわけではない。
朝から夕方まで続く訓練は相変わらず厳しい。
教官の怒号も飛ぶ。
返事が小さければやり直し。
敬礼の角度ひとつにも指摘が飛び、掃除や整列に至るまで細かな規律が求められる。
それでも、人は環境に慣れる生き物だった。
三週間も同じ教室で学び、同じ訓練を受け、同じ食堂で飯を食えば、
自然と「いつもの顔」が出来上がる。
誰と昼食を食べるか。
誰の隣へ座るか。
誰と帰り道を歩くか。
約束など誰もしていない。
それでも、少しずつ教場の中には小さな輪が生まれていく。
松本龍平は、その輪の少し外側から周囲を眺めていた。
元々、群れる性格ではない。
必要以上に誰かへ踏み込むこともないし、自分の内側へ誰かを招き入れるつもりもない。
話しかけられれば答える。
必要な会話はする。
それで十分だった。
そんな龍平の視界に、毎日のように映り込む男がいた。
【佐伯拓海】
最初は、ただの騒がしい海外帰りだと思っていた。
訓練が終われば、
「腹減ったー!」
と誰よりも大きな声を上げる。
教官に質問はあるかと聞かれれば、真っ先に手を挙げる。
同期が困っていれば、ごく自然に隣へ行って手伝う。
最初は空気の読めない男だと思った。
だが、三週間見続けているうちに、その認識は少しずつ変わっていった。
違う。
あいつは空気を読めないんじゃない。
空気を読んだ上で動いているわけでもない。
そもそも「空気に合わせて自分の行動を変える」という発想自体が、最初から存在していないのだ。
教官にも。
同期にも。
年上にも。
年下にも。
誰に対しても態度が同じ。
教官に呼ばれれば、
「はい!」
と大きな声で返事をし、注意されれば素直に直す。
同期が何か失敗すれば、
「次はできるだろ!」
と笑う。
褒める時も同じだ。
照れも遠慮もなく、
「お前、さっきの逮捕術すげぇな!」
と真っ直ぐ言う。
だから不思議だった。
誰も佐伯を嫌わない。
少し浮いている。
少し変わっている。
それなのに、誰もあいつを煙たがらない。
むしろ、いつの間にか輪の中心で笑っている。
龍平には、それが理解できなかった。
人はもっと慎重な生き物だ。
相手の機嫌を見て。
空気を読んで。
言葉を選んで。
少しずつ距離を縮めていく。
そうやって人間関係は出来上がるものだと思っていた。
だからこそ、佐伯拓海という男は異質だった。
あまりにも真っ直ぐで。
あまりにも遠慮がない。
そのくせ、不思議なくらい相手を傷付けない。
昼休み。
龍平は今日も一人で食堂の席へ座った。
この時間だけは静かだった。
訓練を忘れて飯を食う。
それだけで十分だった。
味噌汁へ箸を伸ばそうとした時だった。
「松本。」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
山盛りの白米を載せたトレーを持った拓海が立っている。
「ここ、空いてる?」
龍平は小さく息を吐いた。
また来た。
昨日も。
一昨日も。
毎日ではない。
だが、気付けば隣にいる。
他にも席はある。
他にも話し相手はいる。
なのに、こいつは時々こうして”何事もなかったように”やって来る。
「……どうぞ。」
「ありがと。」
拓海はいつもの笑顔で腰を下ろした。
何事もなかったように白米を頬張り、
「今日の走り込み、きつかったなぁ。」
と笑う。
龍平は適当に相槌を打つ。
会話は続かない。
それでも拓海は気にしない。
静かな時間が流れる。
食堂の喧騒だけが耳に入る。
その沈黙が、龍平には妙に落ち着かなかった。
気付けば口が動いていた。
「……佐伯。」
「ん?」
「何で、毎回来るんですか。」
拓海は口いっぱいに白米を頬張ったまま、きょとんとした顔をした。
本当に意味が分からない、という表情だった。
「だって。」
一拍置いて、当たり前のように笑う。
「あんまり話したことねぇじゃん。」
龍平は言葉を失った。
拍子抜けするほど単純な答えだった。
計算もない。
打算もない。
ただ、話したことがない。
だから話してみたかった。
その一言だけで、自分が何日も抱えていた疑問を片付けてしまう。
龍平はしばらく黙ったまま、味噌汁を見つめた。
(……何なんだ、本当に。)
理解はできない。
たぶん、この先も理解できない。
それでも。
その理由だけは、不思議なくらい嘘ではないと思えた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




