第四百八十八話 「価値観とは、知らないから聞いただけの大型犬が、周囲の『当たり前』を全員フリーズさせる現象のことである」という話
拓海が浮くのはしゃーない気もする
十月上旬。
警視庁警察学校の教場。
入校から数日が経ち、佐伯拓海は浮いていた。
理由は単純だった。
目立とうとしているわけではない。
反抗しているわけでもない。
規則を軽んじているわけでもない。
むしろ、拓海は真面目だった。
教官の話は聞く。
指示があれば動く。
怒られれば直す。
分からなければ聞く。
それだけだった。
ただ、その「分からなければ聞く」が、この場所では少しだけ目立った。
「貴様ら、返事が小さい!」
教官の声が教場に響く。
空気が一瞬で硬くなる。
同期たちの背筋が伸びた。
誰もが表情を引き締める。
それは、怒られている空気だった。
萎縮するための空気。
飲み込むための空気。
余計なことを言わず、ただ従うための空気。
だが、拓海はその空気の読み取りが少しだけ遅かった。
怒号そのものには驚く。
けれど、それを「怖い」と受け取るより先に、指示として処理する。
返事が小さい。
ならば大きくすればいい。
それだけだった。
「はい!!」
教場の中に、やたらと素直で、やたらとよく通る声が響いた。
悪目立ちだった。
だが、本人にその自覚はない。
教官が拓海を見る。
「佐伯」
「はい!」
「声だけは良い」
「ありがとうございます!」
周囲の何人かが、微妙な顔をした。
褒められているのか。
怒られているのか。
よく分からない。
だが拓海は、単純に褒められたものとして受け取っていた。
そのあたりが、少しだけズレていた。
拓海は日本人だ。
日本語も話す。
礼儀を知らないわけでもない。
小中は日本の私立付属に通っていたし、家庭もそれなりにきちんとしていた。
だが、高校から先の八年間は”イギリス”だった。
寄宿学校。
大学。
イギリスでの生活。
気付けば、日本の高校や大学で何となく身につくはずだった空気の読み方だけが、
きれいに抜け落ちていた。
特にこの場所は、普通の学校ではない。
警察学校。
規則。
号令。
報告。
復唱。
整列。
上下関係。
同じ日本であっても、拓海が知っている日本とは少し違う。
だから、何かを言われるたびに少しだけ遅れる。
少しだけ首を傾げる。
そして、疑問があればそのまま聞いてしまう。
それが周囲の緊張を、妙な方向へ揺らしていた。
「質問はあるか」
教官が言った。
教場が沈黙する。
誰も手を挙げない。
初日から数日。
同期たちはもう学んでいた。
質問はしていい。
だが、空気を読む必要がある。
今ここで聞くべきことか。
後で確認すればいいことか。
全員の前で教官に言うべきことか。
そういう判断がいる。
だが、拓海はまだそこまで深く考えていなかった。
分からない。
なら聞く。
「はい!」
また、拓海の手が上がった。
数人の同期が、ほんの少しだけ視線を向ける。
教官も見た。
「佐伯」
「はい。報告の復唱についてなんですけど」
「何だ」
「確認のために質問し返すのと、命令を復唱するのって、順番は絶対に復唱が先ですか」
教場の空気が止まった。
内容自体はおかしくない。
むしろ実務上は大事なことだ。
ただ、今ここで聞くのか、という空気があった。
拓海は気付いていない。
教官は数秒だけ拓海を見た。
「基本は復唱が先だ。受けた指示を正確に確認し、その上で不明点があれば質問する」
「分かりました。ありがとうございます」
拓海は素直に頷いた。
本当に分かった顔だった。
周囲は少しだけ困惑した。
海外帰りだから反抗的なのかと思えば、違う。
空気が読めないのかと思えば、それも少し違う。
聞いたことは覚える。
指摘されれば直す。
教官への態度も悪くない。
むしろ良い。
ただ、前提がズレている。
それだけだった。
昼休み。
食堂。
朝から張り詰めていた空気が少しだけ緩む時間だった。
同期たちは内務班ごとに固まり始めていた。
初日から数日で、何となく輪ができる。
同じ席に座る者。
同じ県出身同士で話す者。
大学の話をする者。
前職の話をする者。
拓海はトレーを持ったまま、その流れを見ていた。
どこへ座ればいいのか、特に決まっているわけではないらしい。
なら空いているところへ座ればいい。
そう判断した。
「お、ここいい?」
近くの席に声をかける。
相手が少し驚いた顔をした。
「あ、ああ」
「ありがと」
拓海は普通に座った。
本当に普通だった。
遠慮がないというより、壁が薄い。
知らない人間に声をかけることへの抵抗があまりない。
イギリスの大学では、そうしなければ何も始まらなかった。
寄宿学校でもそうだった。
知らない相手に話しかける。
そこで何かが始まる。
そういう環境で長く生きてきたせいか、拓海にとってそれは特別な行為ではなかった。
「佐伯って、海外帰りなんだって?」
隣の同期が遠慮がちに聞いてきた。
「うん」
「イギリス?」
「そう」
「すげぇな」
「そうか?」
拓海は味噌汁を飲みながら首を傾げた。
「すごくはないだろ」
「いや、すごいだろ。大学も向こうなんだろ?」
「うん。でも周りがもっとすごかったからな」
「周り?」
「同級生とか、友達とか」
そこで一瞬、翡翠の瞳をした男の顔が浮かんだ。
あれと比べたら、自分など本当にただのラグビーバカだ。
世界の数字を真顔で回すような男が近くにいたせいで、
拓海の自己評価は妙に低いところで安定していた。
「俺は普通だよ」
拓海はそう言って、白米を口に運んだ。
その言葉に嘘はない。
本人は本当にそう思っている。
だが、周囲からすれば少し違う。
イギリスの大学を出た日本人。
海外生活が長い。
体格もいい。
物怖じもしない。
それでいて「普通」と言う。
嫌味ではない。
だが、少しだけ距離感が掴みにくい。
それが拓海だった。
その様子を、少し離れた席から見ている男がいた。
静かな男だった。
初日からずっと目立たない場所にいる。
必要なこと以外は話さない。
周囲が自己紹介をしていても、無理に入らない。
食事も静かに済ませる。
規律本も読む。
何かを覚えようとしているというより、最初から余計な消耗を避けているような男だった。
拓海はまだ名前を知らない。
その男も、拓海の名前を認識している程度だった。
ただ、同じ教場にいる同期。
それだけだ。
だが、その男の目には、拓海の姿が少し違って映っていた。
朝から質問をする。
怒号に萎縮しない。
初対面の同期の隣に普通に座る。
海外帰りだと言われても、すごくないと本気で言う。
浮いている。
明らかに浮いている。
だが、不真面目ではない。
サボっているわけでもない。
媚びているわけでもない。
指摘されればすぐ直す。
覚えるのも早い。
だから余計に分からない。
嫌な奴ではない。
少なくとも、今のところは。
それなのに。
見ていると、妙に引っかかる。
静かな男は、視線を規律本へ戻した。
関係ない。
そう思った。
自分には関係ない。
ここへ来た理由も、背負っているものも、人それぞれだ。
誰が海外帰りだろうと、誰が妙に明るかろうと、自分には関係ない。
必要なのは、警察学校を無事に終えること。
その先に、安定した職を得ること。
それだけだ。
余計な人間関係に消耗するつもりはない。
そう思っているはずなのに。
教場の前方で、拓海がまた教官に呼ばれていた。
「佐伯」
「はい!」
「敬礼の角度が違う」
「はい!」
「もう一度」
「はい!」
拓海は即座に直した。
二度目は正確だった。
教官がわずかに頷く。
「覚えるのは早いな」
「ありがとうございます!」
静かな男は、ページをめくる手を一瞬だけ止めた。
嫌な奴ではない。
不真面目でもない。
ただ。
何だか、見ていて腹が立つ。
理由はまだ分からなかった。
その感情に名前を付けるには、まだ早すぎた。
十月上旬。
警察学校の空気は、少しずつ全員の輪郭を削り始めていた。
その中で、拓海は確かに浮いていた。
良くも悪くも。
そして、その浮き方は、誰かを馬鹿にするものではなかった。
誰かを見下すものでもなかった。
ただ、知らないことを知らないと言い、分からないことを聞き、言われたことを吸収していくだけ。
だからこそ、周囲は扱いに困った。
反抗的なら叱れる。
怠慢なら責められる。
嫌味なら距離を置ける。
だが、拓海は違う。
悪意がない。
悪気もない。
そして、覚えるのが早い。
その奇妙な存在感が、教場の中で少しずつ、確実に輪郭を持ち始めていた。
【Takumi OS:日本って返事も復唱も訓練するんだな。なるほど】
その日の終わり。
拓海はまだ、斜め後ろの静かな男の名前を知らなかった。
静かな男もまた、佐伯拓海という大型犬が、自分の人生の中に少しずつ入り込んでくることなど、
当然まだ知る由もなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




