第四百八十三話 「現実とは、霧の向こうの戦場へ向けてカウントダウンを開始する合図ではなく、一枚の「入校案内」の重みによって、これまでの空白日常が音速で塗り替えられていく現象のことである」という話
生活リズムって一度狂うとなかなか治らんよね(´・ω・`)
八月、東京。
七月に日本へ帰国してから、佐伯拓海の日常は驚くほど平和だった。
朝起きる。
飯を食う。
走る。
筋トレをする。
昼寝をする。
テレビを見る。
また飯を食う。
風呂に入る。
寝る。
十月の警視庁警察学校入校まで、まだ少し時間がある。
その「まだ少し」が、拓海の日常を見事なまでにガバガバにしていた。
もちろん、何もしていないわけではない。
自主トレはしている。
体力維持もしている。
警察学校へ向けて、必要な準備も少しずつ進めている。
ただ、それでも学生時代のように課題があるわけではない。
ハミルトン別邸のように、朝から真顔の男に叩き起こされるわけでもない。
卒論もない。
授業もない。
試験もない。
気が付けば、拓海はこの空白に慣れ始めていた。
そんなある日の午前だった。
「拓海ー、郵便来てるわよ」
リビングにいた母が、玄関から戻ってきながら言った。
「俺宛て?」
「そう。警視庁から」
その一言で、拓海は麦茶のグラスを持ったまま動きを止めた。
「……おお」
テーブルの上に置かれた封筒は、思ったより分厚かった。
表には、警視庁。
『入校関係書類在中』
その文字が、妙に重たく見えた。
拓海は封を切る。
中から出てきたのは、何枚もの書類だった。
入校案内。
集合日時。
持ち物一覧。
健康診断書。
制服採寸予定。
提出書類。
注意事項。
生活上の心得。
「……多いな」
思わず呟いた。
母がお茶を置きながら覗き込む。
「いよいよねぇ」
「おう」
「十月一日?」
「そうみたいだな」
「あと二ヶ月ないじゃない」
その言葉で、急に現実味が増した。
十月。
警察学校。
刑事への第一歩。
ずっと目指していたもの。
それは確かに楽しみだった。
だが、紙に印刷された日付を見ると、ただの夢ではなくなる。
そこには時間があり、場所があり、持ち物があり、提出期限がある。
つまり。
もう、ただ「いつか刑事になる」と言っていればいい時間は終わりに近づいている。
「健康診断書もあるわね」
「あるな」
「これは早めに行きなさいよ」
「分かってるって」
「あなたの分かってるは信用ならないのよ」
「ひでぇ」
母は真顔だった。
信用はなかった。
その時、リビングの扉が開いた。
「何騒いでるんだ」
兄だった。
夜勤明けなのか、大学病院勤務の兄は少し疲れた顔をしていた。
髪は乱れている。
だが目だけは妙に冷静だった。
「警視庁から案内来た」
拓海が封筒を掲げる。
兄はテーブルの上の書類を一瞥した。
「警察学校か」
「おう」
「集合時間は」
「えーと……」
拓海は書類をめくる。
そこに書かれた時間を見た瞬間、少しだけ眉を寄せた。
「……早いな」
兄が鼻で笑った。
「お前、今それで詰んだな」
「詰んでねぇよ」
「夏に入ってから、十時前に起きた日あるか?」
「ある」
「いつ」
「……たぶん」
「ないな」
「決めつけんな」
「その顔はない」
母が横から静かに頷いた。
「ないわね」
「母さんまで」
完全に包囲された。
兄は麦茶を飲みながら書類をめくる。
「持ち物多いな」
「多い」
「名前書けよ」
「小学生かよ」
「集団生活だぞ。似たような物を全員が持ってくる。なくす。混ざる。揉める」
「妙に具体的だな」
「病院も同じだ」
「病院も?」
「白衣、聴診器、ペンライト、印鑑、資料。似たようなものが山ほどある。名前のない物は消える」
「怖っ」
「現実だ」
兄は淡々としていた。
妙な説得力があった。
「あと、健康診断は本当に早く行け」
「だから分かってるって」
「分かってない顔だ」
「どんな顔だよ」
「後回しにして、締切前日に騒ぐ顔」
「兄貴、俺を何だと思ってんだ」
「弟」
「雑!」
兄は少しだけ笑った。
それから、警察学校の案内をもう一度見る。
「実家から通うのか」
「たぶんな」
「なら余計に朝だな」
「そこかよ」
「そこだろ」
兄は真顔だった。
「警察学校がどうこう以前に、お前はまず起きろ」
「起きるって」
「起こされれば、な」
「うっ」
「ハミルトン家で誰かに叩き起こされてたんだろ」
「叩き起こされてはねぇよ」
「じゃあ?」
「真顔で起こされてた」
「同じだ」
「違う」
「同じだ」
反論できなかった。
脳裏に、灰色の瞳をした男の顔が浮かぶ。
朝。
紅茶。
新聞。
そして、極めて平坦な声。
『タクミ。起きたまえ』
あれは暴力ではない。
ただし逃げ場もなかった。
拓海は書類を見下ろしながら、少しだけ笑った。
「……まぁ、大丈夫だろ」
「その根拠のない自信はどこから来るんだ」
「俺だから」
「一番信用ならない理由だな」
母が笑った。
兄も少しだけ笑った。
拓海も笑った。
何でもない会話だった。
だが、テーブルの上にある封筒だけは、確実にそこに重さを持って存在していた。
昼過ぎ。
拓海は入校案内を自室へ持っていった。
机に広げる。
何度見ても書類は多かった。
集合日時。
提出期限。
持ち物。
注意事項。
制服採寸。
健康診断。
指定された書式。
署名欄。
押印欄。
思っていたよりもずっと現実だった。
刑事になりたい。
警察官になる。
それは昔から思っていた。
けれど、その夢は今まで、どこか大きな言葉のままだった。
正義。
事件。
刑事。
そういう、輪郭の大きいもの。
だが、今目の前にあるのは違う。
集合時間。
印鑑。
健康診断書。
黒の靴下。
筆記用具。
通学経路。
提出期限。
夢というより、生活だった。
「……警察学校って、生活なんだな」
独り言が漏れた。
当たり前のことなのに、少しだけ不思議だった。
学園都市にいた頃は、帰国したら警察学校へ行くのだと普通に思っていた。
その先に刑事があるのだと信じていた。
だが、いざ案内が届くと、急に足元へ降りてくる。
十月一日。
その日になれば、拓海は本当に警察学校へ行く。
朝起きて。
電車に乗って。
門をくぐって。
知らない同期たちと顔を合わせる。
その中には、自分と同じように十月入校を選んだ者たちがいるのだろう。
どんな奴がいるのか。
どんな生活になるのか。
何が待っているのか。
想像しても、よく分からない。
だが。
「楽しみだな」
それだけは本当だった。
夕方。
自主トレを終えて戻ると、兄がまだリビングにいた。
珍しく病院へ戻らなくていい日らしい。
「お前、書類見たのか」
「見た」
「理解したか」
「多分」
「不安しかないな」
「ひでぇ」
兄はソファに座ったまま、スマホを操作していた。
「健康診断、予約しておけよ」
「今やる」
「今?」
「今」
拓海はスマホを取り出す。
兄が少しだけ驚いた顔をした。
「珍しいな」
「言ったら言ったでそれかよ」
「いや、成長したなと思って」
「子供扱いすんな」
「弟だからな」
「便利な言葉だな、それ」
兄は笑った。
拓海は病院の予約画面を開きながら、ふと聞いた。
「兄貴」
「何だ」
「警察学校って大変かな」
兄は少し考えた。
「大変だろ」
「やっぱり?」
「どんな仕事でも、最初は大体大変だ」
「雑だな」
「本当だからな」
兄はスマホから視線を上げた。
「でも、お前は向いてるんじゃないか」
拓海は意外そうに顔を上げた。
「そうか?」
「体力はある。人見知りもしない。困ってる奴を放っておけない。無駄に前向き。あと馬鹿」
「最後いらねぇだろ」
「重要だ」
「重要なのかよ」
「変に頭で考えすぎる奴より、最初は動ける馬鹿の方が強いこともある」
褒められているのか貶されているのか分からなかった。
だが、兄の声は妙に穏やかだった。
「まぁ、無茶はするな」
「おう」
「できれば」
「できれば?」
「お前は多分する」
「信用ねぇな」
「ある意味では信用してる」
それもまた、どういう意味なのか分からなかった。
夜。
拓海はもう一度、自室で入校案内を見ていた。
机の横には、先日母に連行されて買った紙袋が置いてある。
今日はその隣に、警視庁からの封筒が加わった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
十月が近づいている。
「……十月一日か」
口に出すと、さらに現実味が増した。
不安はある。
知らない場所。
知らない同期。
知らない生活。
けれど、それ以上に楽しみだった。
今まで、何度も未来の話をしてきた。
刑事になりたい。
警察官になる。
日本に帰る。
そう言い続けてきた。
その未来が、ようやく紙の上に日付として現れた。
拓海は封筒を閉じる。
そして、机の端へ丁寧に置いた。
窓の外では、夏の虫が鳴いている。
明日も暑いだろう。
朝は、多分また起こされる。
それでもいい。
十月までは、まだ少しある。
けれど、もう遠くはない。
「まぁ、何とかなるだろ」
いつものように呟く。
だが、その声は少しだけ、いつもより真面目だった。
同じ頃。
イギリス、ウィルトシャー、ハミルトンホール。
深夜の執務室で、エドワード・ハミルトンは日本支社から送られてきた報告を見ていた。
警視庁。
入校案内。
十月一日。
その文字が、画面の上で妙に冷たく見える。
写真の中の拓海は笑っている。
母親と兄に囲まれて、分厚い封筒を片手に、いつものように明るく笑っている。
未来が始まる顔だった。
エドワードはしばらく画面を見つめていた。
学園都市の別邸。
朝の紅茶。
白米。
くだらない会話。
何度も叩き起こした朝。
何もかもが、もう遠い場所へ移動してしまったように感じる。
当然だ。
拓海は帰るべき場所へ帰った。
そして今、自分の夢へ向かって進んでいる。
喜ぶべきことだ。
喜んでいる。
本当に。
それでも。
「……十月一日か」
小さく呟く。
自分の手が届かない場所で、拓海の新しい日常が始まる。
それを邪魔したいわけではない。
引き戻したいわけでもない。
ただ、見届けたい。
無事に門をくぐるところを。
いつものように笑っているところを。
何も知らない同期たちの中へ、あの大型犬が平然と入っていくところを。
「ジョージ」
通信先の男が、待っていたように応答した。
「はい」
「十月一日、入校当日の記録を」
「承知しました」
「正門前だ」
「もちろん」
「遅れるな」
「サエキではありませんので」
「……そうか」
ジョージは通信の向こうで小さく笑っている気配がした。
エドワードは何も言わず、画面の中の拓海をもう一度見る。
笑っている。
本当に、何も変わらない。
だから安心する。
だから。
少しだけ苦しい。
通信を切る。
執務室は再び静かになった。
机の上には書類が山積みになっている。
父の容態。
事業の数字。
当主代行としての責任。
やることは山ほどあった。
エドワードは深く息を吐き、ペンを取る。
画面の中の「十月一日」という文字だけが、いつまでも目の奥に残っていた。
■ジョージの機密ログ
(八月某日・入校案内到着編)
八月某日。
サエキ家に警視庁から入校案内が届いた。
サエキは非常に元気だった。
母君に「健康診断は早く行きなさい」と言われ、兄君に「まず朝起きろ」と言われ、
本人は「何とかなるだろ」と笑っていた。
非常に通常運転である。
一方、ロンドンのハミルトン様は「十月一日」という文字を見て、
本日最高のツヤのない顔で沈黙された。
サエキの未来が進むことは喜ばしい。
しかし、その未来がハミルトン様の手の届かない場所で始まることもまた事実である。
十月一日。
正門前。
観測予定。
経過観察を継続する。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




