第四百八十二話 「生存とは、地球の裏側の大型犬の笑顔を検閲しながら、父の帝国を背負う魔王が、自らの情緒の不具合(重症)を受け入れる現象のことである」という話
あと100話くらいで終われば大成功('ω')ノ
七月、イギリス。
ハミルトンホール本邸。
夏の訪れを告げる霧が窓の外を白く染めていた。
だが、その景色を眺める余裕など、今のエドワード・ハミルトンには存在しない。
執務机の上には書類。
書類。
書類。
その隣には病院から送られてきた父親の検査結果。
さらに別の封筒。
財団。
本社。
投資。
雇用。
税務。
相続。
数兆ポンドの帝国を構成する無数の数字が、容赦なく彼の知性へ圧力をかけ続けていた。
卒業したばかりの二十二歳の青年に背負わせるには、あまりにも重い現実だった。
それでも。
誰かがやらなければならない。
父は病床にある。
母はいない。
逃げるという選択肢も存在しない。
だからエドワードは今日も静かにペンを走らせる。
淡々と。
冷徹に。
いつも通りに。
そうしていなければ、どこかが壊れてしまいそうだった。
そんな時だった。
机の片隅でタブレットが小さく振動した。
送信者。
ジョージ・ラングレー。
日本支社。
エドワードは一瞬だけ手を止めた。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬が長かった。
静かに画面を開く。
送られてきた写真は一枚。
拓海の実家の食卓だった。
白米。
味噌汁。
焼き魚。
そして。
その中央で本日最高の笑顔を浮かべている大型犬。
【サエキ:日本の飯うめぇ!!】
そんな文字まで添えられている。
「…………」
エドワードはしばらく画面を見つめた。
何も言わない。
何も表情を変えない。
”ただ見つめる”。
ロンドンから一万キロ以上離れた場所。
そこには自分の知らない日常があった。
母親がいて。
兄がいて。
笑い声があって。
テレビがついていて。
そしてその中心に拓海がいる。
本来なら安心するべき光景だった。
むしろ安心以外の感情を抱く方がおかしい。
そう。
おかしいのだ。
だから認めない。
認めるわけにはいかない。
だが。
胸の奥のどこかが静かに軋む。
ジョージからの通信が入る。
「現地観測班からの報告です」
「聞いている」
「サエキ、本日も非常に元気です」
「そうか」
「母君に連行されて警察学校用のスーツを購入」
「そうか」
「自主トレ実施」
「そうか」
「アイス摂取」
「そうか」
「兄君と夕食」
「そうか」
「非常に元気です」
「そうか」
ジョージが黙った。
エドワードも黙った。
数秒。
いや。
数十秒。
執務室には時計の音だけが響いていた。
ジョージは知っている。
今の「そうか」が、全部違う意味だということを。
安心している。
嬉しい。
良かった。
元気そうだ。
そして。
『寂しい』
全部混ざっている。
だからこそ面倒なのだ。
「ハミルトン様」
「何だ」
「良かったですね」
「何がだ」
「サエキが元気で」
エドワードは返事をしなかった。
代わりにもう一度写真を見る。
笑っている。
本当に何も変わらない。
あの男は昔からそうだった。
困っている人間を見ると放っておけない。
無茶をする。
勝手に首を突っ込む。
面倒事を背負う。
そして全部終わったあとで笑う。
今回も同じだ。
イギリスを離れた。
卒業した。
親友と別れた。
それでも笑っている。
何一つ変わらない。
だから安心する。
だから救われる。
そして。
だから苦しい。
「……ジョージ」
「はい」
「報告書の検閲を終了する」
「はい」
「業務に戻れ」
「承知しました」
通信が切れる。
執務室は再び静寂に包まれた。
エドワードはタブレットを伏せた。
書類へ視線を戻す。
数字。
契約。
責任。
義務。
当主代行。
やるべきことは山ほどある。
だが。
ほんの数秒前まで見ていた写真だけが、どうしても頭から離れない。
白米を食べながら笑う拓海。
家族に囲まれて笑う拓海。
未来だけを見ている拓海。
その姿が何より眩しかった。
そして。
その眩しさが今の自分には少しだけ痛かった。
エドワードは静かに目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……そうか」
その言葉に込められた感情を理解できる人間は、この世界にほとんど存在しない。
少なくとも。
当の本人だけは、一生気付かないだろう。
それが少しだけ腹立たしくて。
どうしようもなく愛おしかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




