第四百七十九話 「着任とは、地球の裏側へ行っても「あの大型犬、今度は何をやらかす?」と1200%で正座待機する現象のことである」という話
ここから最終章かなー
六月某日。成田空港。
到着ロビーへ足を踏み入れた瞬間、ジョージ・ラングレーは小さく息を吐いた。
湿度が高い。
ロンドンの空気とは違う。
飛行機を降りた時から分かっていたが、日本の夏は相変わらず独特だった。
「……帰ってきたねぇ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
空港は混雑していた。
観光客。
出張帰りの会社員。
迎えの家族。
スーツケースを引く人々。
忙しなく流れる人の波。
だが、不思議と嫌いではない。
久しぶりではあるが、初めてではなかった。
佐伯拓海がパブリックスクール卒業後、日本へ帰国していた二年間。
ジョージもまた日本にいた。
だから未知の土地という感覚はない。
むしろ、以前使っていたアカウントへ再ログインしたような感覚の方が近かった。
エスカレーターを降りる。
改札へ向かう。
電車へ乗る。
窓の外を流れる景色を眺めながら、ジョージは小さく笑った。
相変わらず人が多い。
相変わらず電車は時間通りだ。
相変わらず自動販売機だらけである。
「燃費の良すぎる国だね」
極東の島国。
過剰なまでに整備された社会インフラ。
正確すぎる時間感覚。
ロンドンとはまた違った意味で、奇妙な完成度を持つ国だった。
数時間後。
都内中枢に建てられたハミルトングループ日本支社。
到着早々、ジョージは引継ぎへ放り込まれた。
支社長との挨拶。
各部署の報告。
進行中の案件確認。
人員配置。
予算。
監査計画。
山積みになった資料を前にしても、特に思うところはない。
仕事は嫌いではなかった。
むしろ好きな方だ。
MI6からの誘いを蹴ってハミルトングループへ来た男である。
今さら日本支社勤務程度で戸惑う理由もない。
「こちらが来期の計画書です」
「ありがとう」
「住居については既に手配済みです」
「助かるよ」
「何か不足があればご連絡を」
「今のところは大丈夫そうだね」
淡々と会話を交わす。
淡々と仕事を処理する。
淡々と環境を整える。
気付けば夕方になっていた。
新しく与えられた住居は支社からそう遠くない場所にあった。
家具も揃っている。
通信環境も問題ない。
生活に必要なものは概ね用意されていた。
荷物を片付ける。
スーツを掛ける。
本を並べる。
PCを設置する。
作業は一時間もかからなかった。
昔からこういう作業は得意だった。
整理整頓。
環境構築。
生活基盤の最適化。
どれも嫌いではない。
もっとも。
それらを誰かへ教えたところで、あの大型犬は一切覚えないだろうが。
「……そういえば」
荷物を片付けながら、ふと思い出す。
数週間前。
ストーンヘンジ旅行の後。
ハミルトンホールの執務室で交わした会話。
『日本支社の報告書を』
『今ですか?』
『ああ』
『極東方面の人員配置も見直せ』
『日本支社ですか』
『ああ』
『急ぎで?』
『念のためだ』
念のため。
万が一のため。
必要になった時のため。
長い付き合いだった。
その言葉が意味するものも知っている。
『警察関係との情報連携も強化しておけ』
『……念のために?』
『ああ』
『輸送ルートも?』
『念のためだ』
『住居の確保も?』
その時だけ、エドワードのペン先が僅かに止まった。
本当に一瞬だった。
だがジョージは見逃さなかった。
『……必要ならな』
『なるほど』
随分と気の長い準備だと思った。
まだ何も起きていない。
起きる保証もない。
それなのに。
警察。
輸送ルート。
住居。
情報網。
すべてが少しずつ整えられていた。
まるで何年も先の未来へ備えるように。
もっとも。
エドワード本人は最後まで認めなかったが。
「相変わらずだねぇ」
苦笑が漏れる。
ハミルトンホールには今頃、一人の魔王が残っている。
仕事の山に埋もれながら。
何事もなかったような顔で。
何事もなかったことにしながら。
夜。
片付けを終えたジョージは近所のコンビニで買った緑茶を淹れ、自室の書斎へ腰を下ろした。
静かだった。
ロンドンとは違う静けさ。
窓の外には東京の夜景が広がっている。
デスクの引き出しを開く。
中には数枚の資料が入っていた。
国際市場の分析資料。
日本支社の監査報告書。
来期計画。
その一番下。
一枚だけ別の紙が挟まっている。
ジョージはそれを取り出した。
【佐伯拓海 警視庁警察学校入校予定者】
数秒。
書類を眺める。
そして吹き出した。
「元気そうだねぇ」
どうせ元気だろう。
実家の白米を食べている。
母親の料理を食べている。
兄に呆れられている。
相変わらず何も考えていない。
失恋した実感も。
別れた実感も。
きっと半分もない。
ジョージは緑茶を一口飲んだ。
「さて」
資料を閉じる。
世界情勢より。
国際問題より。
巨大企業の経営より。
今のジョージが少しだけ興味を持っているもの。
それは。
八年間にわたりロンドンサイドの魔王を胃痛地獄へ叩き込み続けた大型犬の近況だった。
「今度は何をやらかしてくれるんだろうねぇ」
思わず笑う。
ハミルトン日本支社。
別名。
サエキ観測所・日本支部。
本日より正式稼働である。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




