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第四百七十八話 「卒業とは、すべての理性をデバッグし終えたはずの魔王が、最後の一秒だけその強固な防衛網をクラッシュさせ、言葉なき抱擁のなかに八年間の青春をすべて密閉して見送る現象のことである」という話

キャンパス編やっと終了だー(/・ω・)/

次からずっと拓海のターンだー

六月末日。

ヒースロー空港の出発ロビーは、世界中へ散っていく旅人たちの足音と、

無機質なアナウンスで満たされていた。


スーツケースの車輪が床を滑る音。


誰かを呼ぶ声。

搭乗案内。

別れの抱擁。

再会を約束する笑顔。


その全てが、エドワード・ハミルトンにはどこか遠いもののように聞こえていた。


『サエキ拓海、日本帰国』


長かった引き算のカレンダーは、ついに最後の数字を失った。


”ゼロ”。


その数字は思っていたよりも静かで。

思っていたよりも残酷だった。


「んじゃ、エド、バーカ!!」


拓海は本日最高の通常運転で笑っていた。


リュックをガバガバに背負い、片手には空港で買った飲み物を持ち、

もう片方の手で雑に搭乗券を振っている。


未来への不安はない。

別れの湿度もない。

あるのは、ただ新しい場所へ向かう時の、あの眩しいほどの前向きさだけだった。


「荷物も全部送ったし、俺は行くぞ!!」


「……あぁ」


「警察学校、何やんだろうな!! 逮捕術とか、一本背負いとか、毎日やんのかな!!」


「君のそのマヨネーズ並みの生活能力が教官の胃を破壊しないことを祈るだけだ」


「ガハハ!! 最後までそれかよ、バカちんが!!」


笑う。

いつも通りだった。

本当に。

嫌になるほど、いつも通りだった。


だからエドワードも、いつも通りでいるつもりだった。

そのために何ヶ月もかけた。


二月。

三月。

四月。

五月。


残り時間を数えて壊れた。


もっと一緒にいたかったと認めた。

最初で最後の二人旅を実現した。

ハミルトンホールで、自分が何を望んでいるのかも認めた。


必要だ。

残ってほしい。

助けてほしい。

隣にいてほしい。


その全てを一度だけ正面から見て。

その全てを自分で墓場へ埋めた。

言えば変わるかもしれない未来を、選択肢ごと拓海の前から消した。


そう決めたのは自分だった。

だから今日は見送るだけでいい。


完璧な親友として。

完璧な当主代行として。

完璧なハミルトンとして。


「日本に着いたら連絡しろ」


「おう!!」


「空港で迷うな」


「迷わねぇよ!!」


「君の方向感覚は信用に値しない」


「ひでぇ!!」


「事実だ」


「ガハハ!!」


拓海は笑っている。

ずっと笑っている。


この男にとって、今日は終わりの日ではなかった。


”始まりの日”だった。


英国生活が終わる日ではなく。

警察官になるために、日本へ帰る日。


だからこんなにも眩しい。

だからこんなにも軽い。

だからこんなにも、こちらの胸を抉る。


「じゃあな、エド」


拓海が言った。


何でもない言葉だった。

何度も聞いてきた言葉だった。


寄宿学校の廊下で。

大学の講義棟で。

ラグビーのグラウンドで。

別邸の玄関で。


何度も。


何度も。


何度も。


そのたびに、また明日があった。

また朝が来た。

また馬鹿みたいに扉が開いた。

また腹を空かせた声が聞こえた。


だが。


今日だけは違う。

今日の「じゃあな」の先に、明日の別邸はない。


明日の学園都市はない。

明日の朝食もない。

明日の喧嘩もない。


「……あぁ」


エドワードは平坦な声で応じた。


「日本来いよ、バカ!!」


「検討しておこう」


「絶対来いよ!! ラーメン食わせてやるからよ!!」


「それは検討に値するな」


「そこかよ!!」


拓海は声を上げて笑った。


そして。

手を振った。


「またな、バーカ!!」


その言葉を置いて、拓海は背を向けた。


歩き出す。


一歩。

二歩。

三歩。

いつも通りの背中だった。


少し猫背で。

歩幅が大きく。

どこか雑で。

それでも迷いがない。


寄宿学校で初めて見た時もそうだった。


図書室で『枕草子』を広げていた自分を見つけて、何だそれ、と躊躇なく声をかけてきた時も。

クリスマス休暇にハミルトンホールの門をくぐり、でけぇな、と呆れるほど大声で笑った時も。

大学の講義へ向かう時も。

飯を食べに行く時も。


いつだってそうだった。


拓海は前へ進む。

迷わず。


振り返らず。

自分の足で。


だからエドワードは、そんなところが好きだったのだ。

その背中を見ながら、エドワードは動かなかった。

動いてはいけないと思った。


これでいい。


これが正しい。


あいつは日本へ帰る。

警察官になる。

夢を叶える。


その未来を応援すると決めたのは自分だ。

ならばここで引き留める資格などない。

胸の奥で、冷たい声が告げる。


見送れ。

見送るんだ。


エドワード・ハミルトン。

お前はそう決めただろう。

拓海は歩いていく。

搭乗ゲートが近づく。


人の流れに紛れて、その背中が少しずつ遠くなる。


あと数歩。

あと数秒。

それで本当に終わる。


”終わる”。


その言葉が、胸の奥でゆっくりと膨らんでいった。


寄宿学校。

枕草子。

日本語の発音を直された午後。

ハミルトンホールの最初のクリスマス。

白米に騒いだ食堂。

くだらない喧嘩。

湖水地方。

大学。

別邸。

夜更かし。

朝食。

マヨネーズ。

ラーメン。


「バカ」と呼ぶ声。

「エド」と呼ぶ声。


数え切れない日常。


あまりにもくだらなくて。

あまりにも騒がしくて。

あまりにも当たり前で。


そして。

二度と戻らないもの。


(……あぁ)


エドワードは静かに息を止めた。


(本当に、終わるのだな)


後悔はない。


そう思いたかった。


自分は選んだ。

言わないことを選んだ。

拓海の人生を拓海自身のものとして送り出すことを選んだ。


その選択は正しい。

今でもそう思っている。


だが。

正しいことと、苦しくないことは同じではなかった。


拓海は何も知らない。


自分がどれほど必要としていたか。

どれほど残ってほしかったか。

どれほど、ただ隣にいてほしかったか。


何も知らない。

何も知らないまま。

幸せそうに行く。


それでいい。

そうなるようにしたのは、自分だ。


拓海が笑って日本へ帰れるように。

自分の夢だけを見て飛び立てるように。

何も背負わせないように。


自分がそう選んだ。


だから。


この痛みは自分のものだ。

拓海に渡してはいけない。


絶対に。

渡してはいけない。


そう言い聞かせた。


何度も。

何度も。


なのに。


拓海の背中が、人混みの向こうへ消えかけたその瞬間。

胸の奥で、何かが静かに折れた。


理性ではない。

誇りでもない。

ハミルトンの法でもない。


もっと幼くて。

もっと情けなくて。

もっとどうしようもない何かだった。


あと一度だけ。

そう思ってしまった。

あと一度だけ。

最後だから。


本当に最後だから。


”許せ”。


誰に向けた言葉なのか、エドワード自身にも分からなかった。


父にか。

ハミルトンにか。

親友という名の鉄仮面にか。

それとも、八年間ずっと自分を支えてきたこの男にか。


分からないまま。

声が出た。


「——タクミ」


ロビーの雑音を切り裂くには、あまりにも静かな声だった。

それでも拓海は振り返った。


「ん?」


いつもの顔だった。


本当に。

最後まで。

何も変わらない顔だった。


その瞬間、エドワードは歩き出していた。


早足だった。

ほとんど走っていた。


思考は追いつかない。

理性は追いつかない。

決意も矜持も、何もかもが置き去りだった。


次の瞬間。


エドワードは拓海の身体を強く抱き締めていた。


世界が止まった。

アナウンスも。

足音も。

出発ロビーのざわめきも。


何もかもが遠くなる。


腕の中にあるのは、八年間ずっと隣にいた体温だった。

野生の大型犬。

騒がしい男。

白米とマヨネーズとラーメンでできた、どうしようもなく眩しい男。


エドワードが一度も手に入れようとせず。

それでもずっと必要としていた男。


「……エド?」


拓海が戸惑った声を出す。


当然だった。

エドワード自身ですら、自分が何をしているのか完全には理解していない。


八年間。

どれほど重い感情を胸に抱えていても。

どれほど執着していても。

自分からこの境界線を越えることだけはしなかった。


親友。

相棒。

完璧な距離。

その境界線だけは守ってきた。


それが最後の一秒で、完全に壊れた。


言葉が喉まで来る。


行くな。

残れ。

必要だ。

助けてくれ。

好きだ。


どれも本当だった。

どれも嘘ではなかった。


だが。

どれも言わない。


最後の最後まで。


その言葉だけは、拓海の人生へ突き刺してはいけない。


だから。


エドワードは目を閉じたまま、ひどく掠れた声で言った。


「……体には、気を付けろ」


それだけ。

少し間を置いて。


「……必ず、連絡しろ」


それだけだった。


八年間。

この男へ向けたあらゆる感情を飲み込んで。

最後に出てきたのは、たったそれだけの言葉だった。


拓海は数秒、ぽかんとしていた。


それから。

困ったように笑った。


「なんだよ(笑)」


その笑い方が、あまりにも拓海だった。


「お前、本当に今日変だな」


エドワードは腕を離した。


ゆっくりと。


慎重に。

一歩下がる。


親友の距離へ戻る。

自分で壊した境界線を、自分で引き直す。


「……行け、タクミ」


拓海は一瞬だけ首を傾げた。

だがすぐに笑った。


「おう!!」


いつもの声だった。


「じゃあな、エド!!」


「……あぁ」


「またな、バーカ!!」


そして今度こそ。


拓海は振り返らずに歩いていった。


ゲートの向こうへ。

新しい世界へ。

始まりへ。


エドワードは追わない。

もう追わない。


最後の一秒だけ負けた。

それで十分だった。


あれは告白ではない。

引き留めでもない。


八年間の青春への。

たった一度の卒業式だった。


人混みに消えていく背中を見送りながら、エドワードは静かに息を吐いた。


(……楽しかったよ、タクミ)


その言葉だけが。

最後まで口に出せなかった、本当の別れだった。


背後で、ジョージが小さく息をついた。


彼は何も言わなかった。

言えば、ハミルトン様はいつもの真顔で否定する。


だから何も言わない。

ただ、記録する。

完璧な魔王が、最後の最後で一度だけ負けたことを。


そして。


その負け方が、あまりにも美しかったことを。

数秒後。


エドワードは振り返った。

その顔には、既にいつもの鉄仮面が戻っていた。


「ジョージ」


「はい、ハミルトン様」


「極東へ着き次第、日本支社の初回報告を上げろ」


「承知しました」


「サエキの所在確認も怠るな」


「業務ですか?」


「業務だ」


「念のためですか?」


「念のためだ」


ジョージは小さく笑った。


「承知しました」


ロンドンに残る魔王。

日本へ向かう大型犬。


そして、その間を飛ぶ観測者。

八年間続いた学生時代は終わった。

だが、彼らの関係はまだ終わらない。


ただ。

形を変えるだけだった。


■ジョージのヒースロー空港離陸ログ

(六月某日・搭乗ゲート前:最後の一秒の負け戦と、極東への観測任務編)


六月某日。


ヒースロー空港。


僕は、サエキが「またな、バカ!」と100%の光属性で新章へ向かって消えていく直前、ハミルトン様が最後の一秒だけ理性を完全に敗北させ、その野生の巨体を抱き締める瞬間を観測したよ。


サエキ。

君は本当に恐ろしい大型犬だね。


最後の最後まで何も知らない。

相棒がどれほど君を必要としていたかも。

どれほど見送るために壊れていたかも。


その抱擁が、八年間一度も越えなかった境界線の完全決壊だったことも。

君はただ「今日のエドは変だな」と笑って飛行機へ乗る。


本当に君らしい。


そしてハミルトン様。

あなたは最後の一秒だけ負けた。

けれど、その後でちゃんと手を離した。


追わなかった。

引き留めなかった。

それがあなたの勝ちなのか負けなのか、僕には判断できない。


ただ一つ言えるのは。

あれはたぶん、八年間の青春に対する、最もあなたらしい卒業式だったということだ。


さて。


ここからは極東だ。

サエキ観測所、日本支部。


業務内容は、表向きは日本支社の監査。

実態は大型犬の生存ログ確認。


承知しました、ハミルトン様。

経過観察を継続する。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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