第四百七十六話 「継承とは、責任を受け継ぐ行為ではなく、自らの願いを胸の奥へ封印したまま、誰かの未来を笑って送り出す現象のことである」という話
「念のため」(・∀・)ニヤニヤ
五月後半。
ウィルトシャーの広大な緑を抜け、巨大な鉄門がゆっくりと開いていく。
ハミルトンホール。
エドワード・ハミルトンの生まれ育った本邸。
そして、遠くない未来に彼が正式に受け継ぐことになる巨大な帝国の中枢だった。
「うおおおおお!!!!!」
その荘厳な空気を一秒で大爆破した男がいる。
「白米だああああああああ!!!!!!」
サエキ拓海だった。
ストーンヘンジで散々騒いだにも関わらず、車中で「本邸には日本米がある」と聞いた瞬間から、
彼の知性は完全に白米へ上書きされていた。
「おいエド!! 炊き立てか!? 炊き立てなんだな!?」
「知らん」
「確認しろ!!」
「嫌だ」
「なんでだよ、バカ!!」
使用人たちは微笑ましいものを見る顔をしていた。
八年前から変わらない。
ハミルトンホールへ来るたびに騒がしい日本人。
使用人達の間でも既に有名人だった。
「ただいまー!!」
「君の家ではないのだがね」
「もう五回くらい来てるぞ!!」
「回数の問題ではない」
「じゃあ十回来る!!」
「意味が分からん」
いつものやり取り。
いつもの距離感。
いつもの騒音。
だが。
その光景を見ながら、エドワードは静かに目を伏せた。
ハミルトンホール。
八年前。
十四歳だった自分が、初めて親友を連れてきた場所。
あの頃はまだ父も元気だった。
病床ではなかった。
今のように当主代行として帝国を回してもいなかった。
自分はただの後継者候補だった。
学び。
失敗し。
見守られ。
まだ子供でいることを許されていた。
だが今は違う。
病床の父。
積み上がる決裁書類。
次々と飛び込んでくる案件。
取引先の視線。
使用人達の期待。
そして。
もうすぐ正式に自分の肩へ乗るハミルトンの全て。
未来だったものは、とっくに現在になっていた。
それらは既に自分の肩へ乗っている。
正式な継承を待たず。
とっくの昔に。
だからこそ。
エドワード・ハミルトンは誰よりも冷静に理解していた。
自分は限界に近い。
人材が欲しい。
信頼出来る右腕が欲しい。
背中を預けられる相棒が欲しい。
本音を隠さず話せる人間が欲しい。
そして。
目の前で白米に大騒ぎしているこの男が、その全てを満たしてしまうことも知っていた。
(……本当に厄介な男だよ、君は)
能力だけではない。
知性だけでもない。
判断力だけでもない。
”拓海がいるだけで楽になる”。
”張り詰めた神経が緩む”。
”呼吸ができる”。
それを知ってしまっている。
だから最近になって、自分はようやく認めた。
失うのが怖いのではない。
もっと一緒にいたかったのだ。
ただ、それだけだった。
あと少し。
ほんの数年。
大学を卒業しても。
馬鹿な話をしながら。
別邸で騒ぎながら。
”隣にいてほしかった”。
それだけだった。
だが。
それはもう叶わない。
六月になれば終わる。
拓海は日本へ帰る。
警察学校へ行く。
刑事になる。
自分の夢を叶える。
それを知っている。
応援している。
尊敬すらしている。
だからこそ。
口に出来ない言葉がある。
(……残ってくれ)
胸の奥に沈んだ本音。
だが。
エドワードはその言葉を絶対に口にしない。
言えないのではない。
言わないのだ。
もし。
本当に自分が弱音を吐いたら。
もし。
父の病状も。
継承の重圧も。
抱えている全てをさらけ出したら。
『あの男はどうするだろう』
想像はできた。
「なんだよ」
と頭を掻くだろう。
「そんな大事なことなら最初から言えよ」
と怒るだろう。
そして。
もしかしたら。
立ち止まる。
もしかしたら。
迷う。
もしかしたら。
日本行きを考え直す。
本当にそうなるかは分からない。
だが。
その可能性はある。
そして。
その可能性が一%でも存在する以上。
エドワード・ハミルトンは、その選択肢そのものを拓海の前へ置きたくなかった。
友情で残られても困る。
義理で残られても困る。
責任感で残られても困る。
ましてや同情など論外だった。
そんな理由で隣に立たれても意味がない。
残るなら。
あいつ自身が選ぶべきだ。
あいつ自身の人生として。
あいつ自身の夢として。
そうでなければ意味がない。
だが。
それでも。
想像してしまうことがある。
もし拓海がロンドンへ残ったら。
もしハミルトンへ来たら。
もし自分の隣で働いたら。
朝は今より騒がしいだろう。
使用人達は頭を抱えるだろう。
書類は雑に持ち込まれるだろう。
食堂はうるさくなるだろう。
ジョージは腹を抱えて笑うだろう。
そして。
きっと。
幸せだった。
考えるだけで胸が痛むほど。
それは幸せな未来だった。
だからこそ。
エドワードはそこで思考を切る。
駄目だ。
それは願望だ。
自分の願望だ。
拓海の夢ではない。
彼は警察官になりたい。
日本へ帰りたい。
自分の人生を生きたい。
ならば。
自分がするべきことは引き留めることではない。
送り出すことだ。
だからジョージを送る。
だから日本支社を強化する。
だから防衛網を作る。
だから何も言わない。
「必要だ」とも。
「助けてくれ」とも。
「行くな」とも。
全部飲み込む。
「おいエド!!」
遠くから声が飛んだ。
「白米あったぞ、バカ!!」
「そうか」
「しかも炊き立てだ!!」
「それは良かったな」
「お前ん家最高だな!!」
「そうかね」
エドワードは小さく笑った。
本当に。
どうしようもない男だった。
こんな重い話の中心にいながら。
こんな大切な別れの直前にいながら。
白米に感動している。
だが。
だからこそ。
救われてもいた。
(……頑張れ、タクミ)
どうか夢を叶えろ。
どうか日本へ帰れ。
どうか刑事になれ。
そして。
いつの日か。
全部が終わったその先で。
君自身の意志で。
”もう一度だけ”。
私の隣を選んでくれたら。
その時は少しだけ嬉しい。
それは最後まで口には出さない願いだった。
「おい、エド!!」
遠くから声が飛ぶ。
「白米おかわりしていいか!?(笑)」
「好きにしたまえ」
「やったあああああ!!!」
大型犬が厨房へ突撃していく。
使用人達が慌てる。
いつもの光景だった。
エドワードは小さく息を吐いた。
そして。
その日の夜。
拓海が客室で眠った後。
ハミルトンホールの執務室には、まだ灯りが残っていた。
「ジョージ」
「はい」
「日本支社の報告書を」
ジョージは一瞬だけ眉を上げた。
「今ですか?」
「ああ」
差し出された書類を受け取りながら、エドワードは淡々と続ける。
「極東方面の人員配置も見直せ」
「日本支社ですか」
「ああ」
「急ぎで?」
「念のためだ」
念のため。
ジョージは黙った。
長い付き合いだった。
その言葉が意味するものも知っている。
念のため。
万が一のため。
もしものため。
ハミルトンの人間が使う時、その言葉は大抵、本心を隠すための防壁だった。
「警察関係との情報連携も強化しておけ」
「……念のために?」
「ああ」
「輸送ルートも?」
「念のためだ」
「住居の確保も?」
エドワードのペン先が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……必要ならな」
「なるほど」
ジョージは頷いた。
なるほど。
必要なら。
念のため。
万が一のため。
すべて理解した。
「何か言いたそうだな」
「いえ」
ジョージは静かに微笑む。
「ただ、随分と気の長い準備だと思いまして」
「ハミルトンは備える組織だ」
「そうですね」
ジョージはそれ以上言わなかった。
窓の外には静かな夜が広がっている。
客室では、何も知らない大型犬が白米を食べ過ぎて寝ている頃だろう。
エドワードは書類へ視線を落とした。
ただの業務。
ただの備え。
ただの念のため。
そういうことにしておけばいい。
”少なくとも今は”。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




