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第四百七十五話 「観光とは、世界遺産を見に行く行為ではなく、八年隣にいた相棒と学生として最初で最後の二人旅をするという現実に、魔王だけが静かに押し潰される現象のことである」という話

ある意味思い出の旅?

五月。

ウィルトシャーの空は、腹が立つほど晴れていた。


空気は柔らかい。

風は冷たすぎず、湿りすぎてもいない。

遠くまで広がる緑の向こうに、低くうねる丘陵が続いている。


観光には最高の日だった。

少なくとも、普通の人間にとっては。


「うおおおおおおおおお!!!!!」


世界遺産ストーンヘンジの前で、佐伯拓海は本日最高の光属性を全身から放出していた。


「ストーンヘンジだあああああああ!!!!!」


観光客が振り返る。

気にしない。


マヨネーズのボトルを片手に持った日本人青年は、巨石群を前にして、

少年のように目を輝かせていた。


「デカい!! マジでデカい石が並んでるぞ、エド、バカ!!」


「……石だな、タクミ」


隣に立つエドワード・ハミルトンは、本日最高にツヤのない真顔で応じた。


その表情には感動も興奮もない。

地元民の顔だった。

もっと言えば、幼少期に遠足と社会科見学で何度も連れてこられた人間の顔だった。


「お前、世界遺産だぞ!! もっと感動しろよ、バカちんが!!」


「何度も言うが、実家の近所なのだがね」


「またそれか!!」


「事実だ」


「世界遺産!!」


「近所だ」


「歴史の謎!!」


「近所だ」


「巨石文明!!」


「近所だ」


「お前の近所、強すぎるだろ、バカ!!」


拓海が頭を抱える。

エドワードは淡々と視線を向けた。


「それに、私としては、向こうのビジターセンターで売っていたローカルミルクの

アイスクリームの方が記憶に残っている」


「世界遺産よりアイスかよ!!」


「地元の子供にとってはそういうものだ」


「知性の燃費が終わってるぞ、バカ!!」


「君にだけは言われたくない」


少し離れた場所で、ジョージが肩を震わせていた。

手元のタブレットには、既にいくつかのログが残されている。


【ストーンヘンジ】

【世界遺産】

【石】

【近所】

【アイス】

【議論継続中】


完璧な通常運転だった。

だが、通常運転に見えているのは、拓海だけだった。


エドワードにとって、この日はただの観光ではない。

ただの世界遺産でもない。

ましてや、実家の近所への遠足でもない。


これは、八年近く隣にいた相棒と、学生として初めて、そして最後に行く二人きりの旅行だった。


寄宿学校で出会った。

拓海は十六歳。

エドワードは十四歳。

学校で『枕草子』を広げていた変な英国少年に、変な日本人の先輩が絡まれた。


拓海の認識はおそらくその程度だった。


日本語の本を読んでいる妙な外人の後輩。

発音のおかしな日本語を真顔で聞いてくる面倒な少年。


それだけだったはずだ。


そこから八年。


寄宿学校。

休暇。

ハミルトンホール。


大学。

学園都市。

別邸。

食事。

課題。


喧嘩。

呆れ。

騒音。


いつの間にか、隣にいるのが当然になっていた。

けれど、不思議なことに。

二人で旅行をしたことはなかった。


出掛けたことはある。

食事にも行った。


ハミルトンホールへも何度か来た。

湖水地方の話もある。

だが、それらはすべて、日常の延長だった。


何かのついで。

休暇の流れ。

誰かがいた。

用事があった。


そこに二人がいただけだった。


だが今日は違う。

拓海が言った。

卒業前にどこか行くか、と。

男二人旅だな、と笑った。


だからエドワードは二ヶ月かけて予定を空けた。


十四回、空振りした。

一度も「行きたい」とは言わなかった。


ただ、予定を確認し続けた。


空いているか。

週末は。

午後は。

五月は。


そしてようやく実現した。

学生として最初で最後の二人旅。


その目的地が、実家の近所の石だった。


「エド!!」


「何だ」


「写真撮れ!!」


「嫌だ」


「撮れ!!」


「嫌だ」


「記念だぞ、バカ!!」


記念。

その言葉に、エドワードの指が一瞬だけ止まる。


拓海は気付かない。


ただパンフレットを丸めて、巨石群を背に立っている。


笑っている。

何の陰りもない顔で。


「早くしろよ!!」


「……仕方ないな」


エドワードはスマートフォンを構えた。


画面の中に拓海が映る。

ストーンヘンジよりも騒がしい。

世界遺産よりも存在感がある。


八年前とほとんど変わらない笑い方をしている。


だが、エドワードだけは知っていた。


この写真はただの旅行写真ではない。

六月が来れば、彼らは学生ではなくなる。


拓海は日本へ帰る。

エドワードはここへ残る。


再会はあるだろう。

縁が切れるわけではない。


拓海はきっと、何事もなかったようにまた来ると言う。

実際に来るのだろう。


だが、この形では二度とない。


寄宿学校から続いた学生の日常の中で、二人きりでどこかへ行く。

それは、これが最初で最後だった。


「撮ったか!?」


「あぁ」


「見せろ!!」


「うるさい」


「なんだよ、変な顔してねぇだろうな!」


「元からだ」


「ひでぇ!!」


拓海は笑って、画面を覗き込んだ。


「お、いいじゃん!! 世界遺産と俺!!」


「石と君だ」


「言い方!!」


ジョージが少し離れた場所から静かに頷いた。


”石とサエキ”。


極めて正確だった。


ストーンヘンジの観光を終える頃には、拓海の興奮も少し落ち着いていた。

もっとも、完全に落ち着いたわけではない。


「いやー、すげぇな。石だったな」


「最初からそう言っている」


「でも世界遺産だったな」


「近所だ」


「まだ言うか」


「事実だ」


いつもの言い合い。

いつもの歩幅。

いつもの距離。


エドワードは隣を歩きながら、その当たり前の光景を静かに見ていた。

この当たり前が、もうすぐ当たり前ではなくなる。


それだけが、胸の奥に沈んでいる。


拓海は気付かない。

気付かないまま、空を見上げた。


「腹減った」


「知っていた」


「マヨネーズも切れた」


「観光地でボトルを携帯するな」


「非常食だ」


「違う」


「で、昼飯どうすんだ?」


その瞬間、エドワードはようやく本題を口にした。


「ハミルトンホールへ行く」


拓海が振り向いた。


「お前の実家?」


「あぁ」


「近いのか?」


「だから近所だと言っている」


「ストーンヘンジ基準の近所かよ」


「そうだ」


「スケールがバグってるぞ、バカ」


「君に言われたくはない」


拓海は少し考え、それから急に目を輝かせた。


「白米ある?」


「ある」


「先に言え、バカちんがああああ!!!!!」


ストーンヘンジは負けた。


世界遺産は白米に負けた。

拓海は既に巨石群への興味の半分以上を失い、ハミルトンホールの厨房へ意識を飛ばしていた。


「石なんか見てる場合じゃねぇ!!」


「君が行きたいと言ったのだが」


「白米あるなら話は別だ!!」


「最低だな」


「最高だろ!!」


エドワードは小さく息を吐いた。


呆れている。

いつものように。


けれど、その奥にある感情は少し違っていた。


『ハミルトンホール』


拓海は何度か来ている。

初めて来たのは、二人が知り合った年のクリスマス休暇だった。


十六歳の拓海。

十四歳のエドワード。


枕草子を読んでいた変な外人少年と、その日本語に付き合わされた日本人の先輩。


その二人が、クリスマス休暇に本邸へ来た。

拓海は父親や親族にも会った。


エドワードの母の部屋も見た。

日本の本や品物を見て、何かしら騒いだ記憶がある。


あれから八年近くが経った。

同じ道を、同じ相手と走っている。

違うのは、彼らがもう学生生活の出口に立っていることだけだった。


車へ向かう途中、拓海がぽつりと言った。


「懐かしいな」


エドワードの足が止まりかけた。


「……何がだ」


「ハミルトンホール。最初に来たの、クリスマスだったよな」


「あぁ」


「お前の親戚とか、めちゃくちゃいた気がする」


「いたな」


「俺、なんかよく分かんねぇけど飯食ってた」


「君は大体そうだ」


「あと、お前の母さんの部屋も見たよな」


エドワードは答えなかった。


拓海は特別な意味を込めて言ったわけではない。

ただ思い出しただけだ。

過去の話をしているだけだ。


だからこそ、胸に来る。


「枕草子とかあったよな」


「……あったな」


「お前、あそこから持ってきて学校で読んでたんだっけ?」


「正確には違うが、大体はそうだ」


「変な外人のガキだったよな、お前」


「初対面の後輩に変な外人と言う男にだけは言われたくない」


「事実だろ」


「君の日本語教師としての能力は低かった」


「お前の発音が変だったんだよ」


「君の教え方が雑だったのだ」


「うるせぇ、バカ」


拓海は笑った。

エドワードは笑わない。


ただ静かに車のロックを解除した。

拓海が助手席へ乗り込む。

当たり前のように。

昔からそうだったかのように。

そして多分、本人は何も考えていない。


「なぁエド」


「何だ」


「白米、大盛りできる?」


「できる」


「やっぱハミルトンの法、最高だな!!」


「都合のいい時だけ褒めるな」


車が走り出す。

ストーンヘンジの巨石群が、ゆっくりと後ろへ流れていく。


エドワードは前を見ていた。

拓海は助手席で白米と昼食の話をしている。


ジョージは後部座席で、笑いを噛み殺しながら記録を続けている。


ハミルトンホールへ向かう道は、エドワードにとって見慣れた道だった。

幼い頃から何度も通った。

退屈な道。

実家へ戻る道。

何の感慨もなかった道。


だが今日は違う。

”隣に拓海がいる”。


そしてこの旅は、学生として最初で最後の二人旅だった。

それを知っているのは、おそらくエドワードだけだった。


■ジョージの機密ログ

(五月十七日・ストーンヘンジからハミルトンホールへ)


五月十七日。

ウィルトシャー。


僕は、サエキが世界遺産ストーンヘンジを前に「石だ!」「デカい!」「世界遺産だ!」と1200%の通常運転で吠え散らかす横で、ハミルトン様が「近所だ」と五回ほど反撃するのを観測したよ。


サエキ。


君、相変わらず恐ろしい大型犬だね。

君にとって今日は、世界遺産と白米の日だ。


けれどハミルトン様にとっては違う。

これは、八年近く隣にいた君と、学生として最初で最後に行く二人きりの旅行なんだ。


しかも行き先は、実家の近所の石。

そして昼食は白米。


最高に君たちらしい。


なお、ハミルトンホールへ向かう途中、君が「懐かしいな」と言った瞬間、

ハミルトン様の情緒は静かに即死しかけていた。


本人はもちろん気付いていない。


経過観察を継続する。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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