第四百七十四話 「帰還とは、大型犬が最高の世界遺産だと指差した場所が、魔王にとっては実家の近所の社会科見学コースだった現象のことである」という話
ハミルトンホールはウィルトシャーにあります
五月中旬。
春と初夏の境目のような風が学園都市を吹き抜けていた。
卒業まで、あと一ヶ月と少し。
別邸の時計は相変わらず正確に時を刻み続けていたが、その数字が意味するものを最も理解していたのは、恐らくエドワード・ハミルトンただ一人だった。
六月。
大学卒業。
そして、佐伯拓海の帰国。
十四歳から八年近く続いた日常が終わる日。
その事実は何一つ変わらない。
ただ、残された時間だけが静かに削られていた。
だからこそ。
エドワードはこの二ヶ月、異常なほど真面目に仕事をしていた。
もちろん本人は認めない。
認めるつもりもない。
全ては業務上必要な調整だった。
”ただそれだけだ”。
少なくとも建前の上では。
実際、この二ヶ月で行われたスケジュール調整は常軌を逸していた。
本来五月に予定されていた監査は四月へ移された。
出張は圧縮された。
会食は延期された。
会議は前倒しされた。
ジョージは死にかけた。
その結果として。
五月のある週末だけが、異様なほど綺麗に空いていた。
偶然ではない。
エドワードが二ヶ月かけて作り出した空白だった。
もちろん。
そんな涙ぐましい努力を知る人間はほとんどいない。
ジョージくらいのものだった。
そして。
その原因である大型犬はというと。
そんなことは一ミリも知らず、リビングのソファの上で旅行雑誌を広げていた。
「おい、エド!!」
元気だった。
無駄に元気だった。
卒業前だとか帰国だとかいう湿度を一切感じさせない、いつも通りの大型犬だった。
「何だ」
「旅行先決めたぞ!!」
エドワードは視線を上げた。
旅行。
男二人旅。
拓海から提案された卒業前最後の旅行。
その言葉だけで未だに胸の奥が僅かに軋む。
だが表情には出さない。
親友のマスクは完璧だった。
「そうか」
「聞いて驚け!!」
「別に驚くつもりはないがね」
恐らく湖水地方。
あるいはスコットランド。
拓海が気に入りそうな自然か歴史的建造物。
エドワードはそんな予想を立てていた。
だが。
「ストーンヘンジだ!!」
数秒。
別邸の空気が静止した。
「…………ストーンヘンジか」
「おう!!」
拓海はパンフレットを振り回した。
「世界遺産だぞ!!」
「そうだな」
「石がいっぱい並んでんだぞ!!」
「そうだな」
「すげぇよな!!」
「そうだな」
そして。
「俺、一回も行ったことねぇんだよ!!」
「私はある」
拓海が止まった。
「え?」
「ある」
「マジで?」
「あぁ」
「いつ?」
「小学校」
「小学校?」
「遠足だ」
拓海が固まった。
「遠足?」
「あぁ」
「ストーンヘンジに?」
「あぁ」
「世界遺産だぞ?」
「近所だからな」
「え?」
「実家の近所なんだが」
今度は本当に沈黙した。
数秒後。
「え?」
同じことをもう一度聞いた。
「だから」
エドワードは紅茶を口に運ぶ。
「ハミルトンホールはウィルトシャーだ」
「おう」
「車で一時間もかからん」
「え?」
「遠足でも行った」
「え?」
「社会科見学でも行った」
「え?」
ジョージは少し離れた場所で書類を整理しながら肩を震わせていた。
石だからな。
近所の子供にとっては石でしかない。
それは仕方ない。
「じゃあ詳しいじゃん!!」
「詳しくない」
「案内できるだろ!!」
「できない」
「なんでだよ!!」
「石だからだ」
「世界遺産だぞ!!」
「近所だ」
「世界遺産!!」
「近所だ」
「世界遺産!!!!」
「近所だ」
見事な平行線だった。
ジョージは静かに記録した。
世界遺産派と近所派の対立は深刻である、と。
もっとも。
エドワード自身はそこまで本気で否定しているわけではなかった。
ストーンヘンジそのものには大して興味はない。
だが。
タクミが行きたいと言うなら別だった。
結局のところ。
場所など何でも良かったのだ。
湖水地方でも。
スコットランドでも。
ウェールズでも。
あるいは実家の近所でも。
どうせ残された時間は変わらない。
その事実だけが静かに胸の奥へ沈んでいく。
「よし!!」
拓海は立ち上がった。
「決まりだな!!」
「そうだな」
「ストーンヘンジだ!!」
「そうだな」
「世界遺産だ!!」
「近所だ」
「バカ!!!!」
ジョージは思った。
卒業まであと一ヶ月。
きっと。
この二人は最後までこんな調子なのだろう、と。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




