第四百六十九話 「自覚とは、自らの感情の名前を知ることではなく、その感情が想像していたより遥かに重かったと認める現象のことである」という話
エドワード君崩壊寸前
三月末。
ロンドンの風に、わずかながら春の匂いが混じり始めていた。
冬の終わりは、いつも静かにやって来る。
雪が溶けるように。
霧が薄れるように。
何かが終わることを、誰にも許可を取らずに決めてしまうように。
学園都市別邸の窓の外でも、枝先には小さな芽が膨らみ始めていた。
けれど、書斎の中に灯る暖炉の火は、まだ冬の名残を抱えている。
深夜。
エドワード・ハミルトンは一人、デスクに向かっていた。
目の前には書類がある。
ハミルトン帝国の予算書でも、契約書でもない。
卒業関連の案内。
帰国手続き。
梱包業者の控え。
拓海の部屋から運び出された荷物のリスト。
ただの紙だ。
ただの手続きだ。
学生が卒業する。
留学生が母国へ帰る。
それだけのことだった。
そのはずだった。
エドワードは、もうずっと前から知っていた。
自分がタクミを好きだということ。
愛しているということ。
告白はしないこと。
完璧な親友のマスクを被り続けること。
その笑顔を守り、自らの恋心は墓場まで持っていくこと。
それらは今さら揺らぐような感情ではない。
十四歳で出会ってから今日まで、自らの内側へ幾度も書き込み、
検証し、修正し、最後には確定事項として保存してきた、冷徹なロジックだった。
だから今さら。
ああ、私は彼を愛していたのか。
などという甘い発見をするつもりはなかった。
そんな段階は、もうとうに過ぎている。
愛している。
それは知っている。
失うのが苦しい。
それも知っている。
親友でいるしかない。
それも、とっくに決めた。
だから。
今夜、自分の胸の奥で軋んでいるこの痛みは、それらとは違う何かだった。
エドワードはペンを置いた。
静かな音がする。
それだけで、書斎の空気が少し重くなったように感じた。
(……おかしいな)
六月まで、まだ三ヶ月ある。
拓海はまだこの別邸にいる。
今日もいた。
明日もいる。
いつものようにドアを開け、いつものように騒ぎ、いつものように腹が減ったと吼える。
何も失っていない。
まだ。
何一つ。
それなのに。
なぜ、”自分はこんなにも息がしづらいのだろう”。
エドワードは椅子の背へ身体を預ける。
天井を見上げた。
そこに答えはない。
当然だ。
答えは自分の中にしかない。
だからこそ厄介だった。
(失うのが怖いのか)
違う。
それはもう知っている。
(告げなかったことを後悔しているのか)
違う。
それは選んだ。
自分で選んだ。
タクミに何も背負わせないために。
今の関係を壊さないために。
自分が親友でいるために。
(では、何だ)
暖炉の薪が小さく爆ぜた。
その音に、エドワードはゆっくりと視線を落とす。
デスクの端には、拓海の荷物の控えが置かれている。
衣類。
本。
雑貨。
マグカップ。
旅行記。
記念品。
くだらない物ばかりだ。
捨てればいい物も多い。
だが、その一つ一つが、あの男がここにいた証だった。
あの部屋で寝起きし、文句を言い、腹を空かせ、課題から逃げ、
ソファで眠り、エドワードの知性を日々削り続けた証だった。
それが少しずつ箱へ入れられていく。
箱に入れられたものは、もう日常ではない。
過去になる。
思い出になる。
持ち帰る物になる。
エドワードは、そこまで考えて目を伏せた。
十年近く。
十四歳で出会ってから、二十二歳になる今日まで。
”人生の半分近く”を、あの騒音と共に過ごしてきた。
普通なら十分な時間だろう。
人はもっと短い時間で恋をする。
もっと短い時間で別れる。
もっと短い時間で、一生忘れられない傷を負う。
ならば、自分には十分な時間が与えられていたはずだった。
それなのに。
足りない。
どうしようもなく足りない。
あと三ヶ月ある。
その事実が何の慰めにもならない。
まだ三ヶ月ある、ではない。
もう三ヶ月しかない。
そう思った瞬間、エドワードは自分の愚かさを理解した。
失うのが怖いのではない。
告白できないことが苦しいのでもない。
もちろん、それらもある。
あるに決まっている。
だが、その下にもっと単純で、もっと幼稚で、もっと救いようのない願いが沈んでいた。
(……あぁ)
認めたくなかった。
そんなものは、ハミルトンの法で名付けるにはあまりにも稚拙で、あまりにも情けない。
だが。
認めない限り、この息苦しさの正体には辿り着けない。
(私は、もっと一緒にいたかったのか)
ただ、それだけだった。
もっと隣にいたかった。
もっと朝の騒音に呆れていたかった。
もっと食事の注文に苛立っていたかった。
もっとくだらない会話を聞いていたかった。
もっと、”タクミが何も気付かないまま笑っている顔を見ていたかった”。
愛しているという言葉よりも、ずっと惨めだった。
失いたくないという恐怖よりも、ずっと幼かった。
『もっと一緒にいたかった』
十年近くもあったのに。
それでもまだ、足りなかった。
エドワードは静かに目を閉じる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
それは悲鳴ではなかった。
もっと静かなものだった。
長い時間をかけて凍りついた湖面に、春の光が差し、ひびが入るような音。
壊れる音ではない。
隠していたものが、隠しきれなくなる音だった。
「おーい! エド、バカ!!」
廊下の向こうから声がした。
その瞬間、エドワードは目を開ける。
いつもの声。
いつもの足音。
いつもの乱暴な気配。
ドアが開く。
拓海が顔を出した。
「まだ起きてんのかよ」
「君に言われたくはない」
「腹減った」
「帰れ」
「ここ俺の家みたいなもんだろ!」
「違う」
「似たようなもんだ!」
「違う」
拓海は笑った。
何の曇りもない顔だった。
卒論も終わった。
荷物も少しずつ片付いている。
帰国の準備も進んでいる。
それでも、この男の笑顔は昨日と同じだった。
そこに別れの影はない。
喪失の予感もない。
ただ今日の空腹と、明日の予定と、目の前のエドワードへの遠慮のなさだけがある。
「そういやさ」
「何だ」
「日本帰って、警察学校終わって、刑事になったらさ」
「……」
「また来るからな」
拓海はいつも当然のように言った。
「そん時はまたこの別邸に泊まる。マヨネーズ切らすなよ」
「君は私の家を何だと思っている」
「エドんち」
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
拓海は笑う。
その未来を疑っていない。
また来る。
また会う。
また騒ぐ。
その言葉は嘘ではない。
拓海は本当にそう思っている。
エドワードも、それを否定しなかった。
否定できなかった。
きっと、この男は来る。
数年後。
警察官になり、少し日に焼け、今より少し大人になった顔で。
何の前触れもなく玄関を開け。
腹が減ったと吼え。
勝手にソファへ座り。
何も変わらないように笑うのだろう。
その光景を、エドワードは容易に想像できた。
想像できてしまった。
だから苦しかった。
未来はある。
再会もある。
だが、今は戻らない。
この学園都市で。
学生として。
課題に追われ、食事に文句を言い、くだらないことで怒鳴り合い、
同じ日常の中に閉じ込められていたこの時間は。
六月で終わる。
拓海はそれをまだ知らない。
知っていても、たぶん同じように笑う。
それが、この男なのだ。
「エド?」
「……何だ」
「なんか顔怖ぇぞ」
「元からだ」
「そうか!」
「納得するな」
「バカ」
拓海は笑いながら書斎に入ってくる。
そして遠慮なくソファへ腰を下ろした。
足を伸ばす。
炭酸飲料を開ける。
まるで明日も、来月も、来年も、ずっと同じようにここにいるかのように。
エドワードはその姿を見た。
何度も見た姿だった。
見飽きるほど見たはずだった。
それなのに。
今夜だけは、目を逸らせなかった。
(……私は、本当に愚かだな)
今さら気付くとは。
こんなにも欲深かったことに。
こんなにも足りなかったことに。
こんなにも、この男の存在を自分の日常の深い場所へ食い込ませていたことに。
エドワードは小さく息を吐く。
「……うるさい、タクミ」
「まだ何もしてねぇだろ!」
「存在がうるさい」
「ひでぇ!」
「事実だ」
いつもの会話。
いつもの夜。
いつもの日常。
それを守るために、自分は何も言わないと決めた。
この男が笑ったまま日本へ帰れるように。
この男が自分の未来を選べるように。
自分の感情で、その足を止めないように。
だから言わない。
愛しているとも。
離れたくないとも。
もっと一緒にいたかったとも。
何一つ。
ただ、親友としてそこにいる。
それだけを選ぶ。
その選択に後悔はある。
苦痛もある。
きっと、この先も消えない。
だが、それでも。
選び直すつもりはなかった。
拓海はソファで勝手に寛ぎながら、何かくだらない話を始めている。
警察学校のこと。
日本の米のこと。
帰ったら食べたいラーメンのこと。
”そして、いつかまたここへ来る話”。
エドワードはそれを聞いていた。
返事は少ない。
呆れたように。
いつも通りに。
けれど胸の奥では、認めてしまった感情の重さが静かに沈んでいる。
愛しているのではない。
いや、愛している。
それはもう知っている。
今夜、エドワードが思い知ったのは、その愛が想像していたよりも遥かに重く、
愚かで、幼く、そして手遅れなほど日常に根を張っていたという事実だった。
六月まで、まだ三ヶ月ある。
拓海はまだここにいる。
何一つ失っていない。
それなのに。
エドワード・ハミルトンは、既にその喪失の重さに沈み始めていた。
■ジョージの機密ログ(三月末・深夜の別邸:魔王の重症自覚と、手遅れの「一緒にいたかった」編)
三月末。
春の足音が聞こえる深夜。
僕は、ハミルトン様がデスクの上でサエキの帰国関連ログを検閲しながら、自らが想像していたよりも遥かに重い感情から逃げられなくなり、静かにシステム終了しかけているのを見たよ。
サエキ。
君、本当に恐ろしい大型犬だね。
まだ三ヶ月もある。
君はまだ別邸にいる。
今日も飯を食べ、明日も騒ぎ、来週もハミルトン様の知性を削る。
それなのに、君が何の悪気もなく「また来るからな」と笑っただけで、ハミルトン様は
「未来はあるのに今は戻らない」という、最も救いようのない現実に沈められていたんだよ。
愛していることは知っている。
失うのが辛いことも知っている。
それでも今夜、ハミルトン様が初めて認めたのは、もっと一緒にいたかった、
というあまりにも単純で、あまりにも手遅れな本音だった。
感情の名前を知るんじゃない。
重さを認めて、静かに沈む。
これが三月末の魔王の自覚。
なお大型犬本人は、ソファで炭酸飲料を飲みながら「腹減った」と通常運転を継続していた。
経過観察を続ける。
非常に、香ばしい。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




