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第四百六十八話 「思い出とは、過ぎ去った時間を振り返る行為ではなく、終わりが近づいた時に初めて、その日々が二度と戻らないことを知る現象のことである」という話

BGMは「思い出のアルバム」でしょうかね

三月下旬。

ロンドンの春は、まだ完全には姿を見せていなかった。


けれど、冬の重さは少しずつ薄れ、学園都市の霧の向こうにも、柔らかな光が混じり始めていた。


別邸の中も同じだった。

何かが終わりに向かっている。


はっきりと誰かが口にしたわけではない。

だが、部屋の隅に積まれた段ボール箱が、その事実を無言で主張していた。


佐伯拓海の部屋。


数日前まで足の踏み場もないほど物が散らかっていたその部屋は、

少しずつ広さを取り戻していた。


本棚からは洋書やファイルが消えた。

壁に貼られていたポスターも剥がされた。

机の上に積まれていたノートやプリントも、ほとんど箱の中に収まっている。

最初からそうだったような顔で、床だけが妙に広い。


エドワード・ハミルトンは、部屋の入口に立ったまま、その光景を見ていた。


ただの荷造りだ。

卒業前なら誰もがすること。


必要な手続き。

必要な整理。


それだけのはずだった。


「あ!」


拓海の声がした。

空になりかけた本棚の最下段。


そこに一冊だけ残っていた古いペーパーバックを見つけ、拓海が身を乗り出す。


「おいエド、これ見ろよ!」


「何だ」


「これ、湖水地方行く前に買ったやつだ!」


拓海は本を持ち上げた。

表紙は少し擦れている。

角も折れていた。

旅行記だった。


あの時、エドワードが無理やり買わせた本だ。

最低限の地理くらい頭に入れておけ、と言った記憶がある。


拓海は確か、最初の三ページで寝た。


「覚えてるか?」


「覚えている」


「俺、これ読もうとして寝たんだよな!」


「読もうとして、ではない。君は表紙を開いた時点で既に負けていた」


「ひでぇ!」


「事実だ」


「でも楽しかったよな、湖水地方」


「……そうだろうな」


楽しかった。

その言葉は、簡単に肯定できた。


湖の光。

朝の冷気。

拓海の無駄に大きな声。

文香が笑っていたこと。

拓海が道に迷い、平然と「景色見てただけだ」と言い張ったこと。


思い返せば、どれもくだらない。

くだらないからこそ、鮮明だった。

拓海は本をしばらく眺めたあと、段ボールの中へ入れた。


バサリ、と乾いた音がした。

エドワードはその音を聞いた。

ただ本が箱に入っただけだ。


それなのに、その一瞬だけ、何かが過去へ移されたように見えた。


「これは持って帰る」


「読むのか」


「たぶん!」


「読まないな」


「読むかもしれないだろ!」


「君の『たぶん』ほど信用できない言葉はない」


「バカ!」


拓海は笑う。

何も重く受け止めていない。

ただ、懐かしいものを見つけたから持って帰る。


それだけだ。


エドワードは何も言わなかった。

次に見つかったのは、古いマグカップだった。

取っ手の端が少し欠けている。

大学一年の学園祭で買ったものだった。


「これもあった!」


「それは捨てろ」


「なんでだよ!」


「欠けている」


「まだ使える」


「使うな」


「使う!」


拓海は即答した。

そのマグカップで、何度も夜中に飲み物を飲んでいた。


試験前。

レポート前。

拓海が寝落ちし、エドワードが呆れながら書類を片付けた夜。

ジョージが「大型犬の介護ですか」と笑った夜。


何でもない夜ばかりだった。

だが、その何でもない夜が、いつの間にか積み重なっていた。


拓海はマグカップを箱へ入れる。

割れないように、適当な布で包む。

その包み方があまりにも雑だったので、エドワードは無言でやり直した。


「おお、助かる!」


「君に任せると日本に着く前に粉砕される」


「そこまで雑じゃねぇよ」


「雑だ」


「バーカ」


拓海は笑って、次の引き出しを開けた。

そこから出てきたのは、ラグビー部の記念Tシャツ。


色褪せている。

袖も少し伸びていた。


「懐かしいなー!」


「それは本当に捨てろ」


「捨てねぇよ!」


「布としても限界だ」


「思い出だぞ!」


思い出。

拓海は何気なくそう言った。


その言葉に、エドワードの指先がわずかに止まる。


『思い出』


そう呼べるものになったのか。

あの騒がしかった日々は。

あの面倒で、手間がかかって、腹立たしくて、呆れるほど鮮やかだった日々は。


もう、思い出と呼ばれる場所へ行こうとしているのか。


「エド?」


「……何だ」


「どうした」


「何でもない」


「そうか?」


「ああ」


拓海はすぐに納得した。

そしてTシャツを段ボールへ入れる。

エドワードはそれを見ていた。


ラグビー。

雨の日の練習。

拓海が泥だらけで戻ってきた日。

怪我をしても平気だと言い張った日。

エドワードが呆れ、ジョージが笑い、拓海が腹を減らした日。


あった。

確かにあった。

その全てが、今は一枚の古びたTシャツになっている。


バリバリ、とガムテープの音が鳴る。


一箱。

また一箱。


閉じられていく。


部屋はさらに広くなった。


「ずいぶん片付いたな」


拓海が言った。

満足そうに。


「最初、俺がここに来た時って、こんなんだったっけ?」


「もっと何もなかった」


「あー、そうだっけ」


「君が来てから物が増えた」


「俺のせいかよ」


「君のせいだ」


「まあ、そうか!」


なぜか納得した。

拓海は部屋を見回す。


その顔に寂しさはない。

むしろ、どこか楽しそうだった。


「でも、また来るしな」


「……」


「警察学校終わって、刑事になって、休み取れたらまた来る」


あまりにも当たり前のように言う。


「そん時また散らかしてやるから覚悟しろよ、エド」


「やめろ」


「ガハハ! バカ!」


「うるさい」


拓海は本気だった。

また来るつもりでいる。


それを疑っていない。

エドワードも疑っていなかった。


拓海は戻ってくるだろう。

警察官になっても。

忙しくなっても。


休みを見つけては突然現れ、玄関を騒がしく開け、腹が減ったと吠え、

勝手に冷蔵庫を漁り、勝手にソファを占領する。


そんな未来は容易に想像できた。

想像できてしまうからこそ、苦しかった。


”また会える”。


それは分かっている。


だが、戻れない。


この部屋でレポートに追われる拓海には。

試験前に文句を言いながら本を開く拓海には。

泥だらけで帰ってきて、腹が減ったと騒ぐ拓海には。

何の責任も背負わず、学生という檻の中で、ただ明日の課題と今日の飯だけに

文句を言っていた拓海には。


もう、戻れない。

そしてそれは、エドワードも同じだった。


エドワードももう学生ではなくなる。

ハミルトンの名を背負う。


仕事が増える。

責任が増える。

拓海が日本へ帰るように、自分もまた、この学園都市の日常から去る。


拓海だけがいなくなるのではない。

二人とも、この時間から出ていくのだ。


その事実が、段ボールよりも、本棚よりも、何よりも重かった。


「おいエド」


「何だ」


「これ、どうする?」


拓海が手に持っていたのは、小さな写真だった。

どこかのパブで撮ったものだ。


拓海が笑っている。

ジョージが横で呆れている。

エドワード自身も写っていた。


表情はいつも通り無愛想だ。

けれど、目元だけは今より少し若い。


拓海が覗き込む。


「お前、顔怖ぇな」


「君は昔から騒がしいな」


「うるせぇな」


拓海は写真を見て笑った。


「これも持ってく」


「そうか」


「また撮ろうぜ」


「……ああ」


「今度は警察官の俺な!」


「そうだな」


「お前もちゃんと笑えよ」


「断る」


「なんでだよ!」


「必要ない」


「あるだろ!」


”また撮ろうぜ”。


拓海はそう言った。

その言葉は優しかった。

未来があるという言葉だった。


だからこそ、エドワードは少しだけ目を伏せる。


未来はある。

だが、今は終わる。

この写真の中にある時間は、二度と戻らない。


それが思い出というものなのだと、今さら知った。

過ぎた時間を懐かしむものではない。


終わりが近づいて初めて、それが戻らないものだったと気付く。

拓海は写真を本の間に挟み、段ボールへ入れた。


箱の底へ、静かに沈む。

エドワードはその様子を見ていた。


何も言わなかった。

言えば、何かが崩れそうだった。


「よし!」


拓海が立ち上がる。


「今日はここまで!」


「まだ終わっていない」


「腹減った!」


「だろうな」


「飯にしようぜ!」


「君は本当にそれしかないな」


「あるぞ!」


「そうか」


「まず飯!」


「結局それだ」


拓海は笑いながら部屋を出ていった。

足音が遠ざかる。


すぐに階下から、ジョージに何かを要求する声が聞こえた。


相変わらずうるさい。

相変わらずだった。


エドワードは一人、部屋に残った。


がらんとした部屋。

空いた本棚。

机の上の薄い埃。

壁に残ったポスターの跡。

積み上がった段ボール。


そこには、まだ拓海の気配がある。


だが、それはもう、箱の中に収められた気配だった。


エドワードは部屋の中央へ歩み寄る。

さっきまで拓海が座っていた床を見る。


何度も見た光景だった。

何年も見続けた光景だった。


それが、少しずつ終わっていく。


また会える。

それは疑っていない。


だが。


この時間には、もう戻れない。

エドワードはゆっくりと息を吐いた。


窓の外には、春の霧が漂っている。


それは始まりの季節のはずだった。


けれど今夜だけは。

終わりの色をしていた。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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