表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
519/568

第四百六十六話 「自覚とは、自らの感情の名前を知ることではなく、失う未来を前にして、その質量から逃げられなくなる現象のことである」という話

エドワードのカウントダウンってコト?

三月。

冬の終わりが近づき、春の訪れを感じていた。

学園都市の空気はまだ冷たい。だが、窓の外の木々には僅かに春の気配が混じり始めている。


別邸の書斎には暖炉の火が灯っていた。


深夜。

誰もいない。

静かな部屋だった。


エドワード・ハミルトンは一人、デスクに向かっていた。


目の前には書類が並んでいる。

ハミルトン帝国の予算書でもなければ、投資案件でもない。


大学の卒業関連書類。

帰国手続き。

進路届。

警察学校関連資料。


どれも学生なら誰もが通る、ごく当たり前の書類だった。


だが。

エドワードの視線は、その中の一枚から離れない。


進路届。

そこに印字された名前。


『佐伯拓海』


ただ、それだけだった。


たった一行。

何の変哲もない文字列。


それなのに。

その紙切れ一枚が、今夜のエドワードから思考を奪っていた。


暖炉の火が小さく爆ぜる。

時計が静かに時を刻む。


だが、書斎の主だけは動かなかった。


視線を落としたまま。

長い時間。

何もせずにいた。


”帰るのだな”。


ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。


帰る。

ただそれだけのことだった。


最初から分かっていた。

拓海は日本人だ。

日本で生まれ、日本で育った。

警察官になりたいと言っていた。

警察学校へ進む。


”日本へ帰る”。


そんなことは八年前から決まっていた未来だ。

今さら驚くような話ではない。


知っていた。

本当に知っていた。


誰よりも。


だからこそ。

エドワードは自分でも理解できなかった。


なぜ。

これほど苦しいのか。


なぜ。

この紙切れ一枚がここまで重いのか。


帰る。


たったそれだけの言葉が。

まるで胸の奥へ鉛を流し込まれるように重かった。


エドワードは目を閉じる。


思い出す。

初めて出会った日のこと。


騒がしかった。

今と同じように。


何も考えていないような顔で笑っていた。

面倒なことばかり起こした。


放っておけば勝手にトラブルへ飛び込んでいった。


助けなければならなかった。

叱らなければならなかった。

守らなければならなかった。


気付けば。

それが当たり前になっていた。


朝になれば顔を合わせる。

昼になれば騒ぐ。

夜になれば勝手にソファへ座る。


何でもない日常。


八年。

それが八年続いた。


だから。

いつからだろう。

自分の人生の中に、拓海が存在していることを前提に未来を考えるようになったのは。


暖炉の火が揺れる。


静かな夜だった。

静かなはずだった。

なのに胸の奥だけが騒がしい。


帰るのだな。


もう一度思う。

帰る。


そして。

その先にある未来には、自分はいない。


警察学校。

警察官。

日本。


新しい職場。

新しい人間関係。

新しい日常。


そこに”エドワード・ハミルトン”という名前は存在しない。


当然だ。

当たり前だ。

それが正常な未来だ。


なのに。

その正常さが息苦しかった。


エドワードはゆっくりと書類を閉じる。


だが。

閉じても何も終わらなかった。


見なければ良かったのかもしれない。

けれど見なくても同じだ。


現実は変わらない。


卒業は来る。

春も来る。

そして拓海は帰る。


その未来から逃げられないことだけが、今夜は嫌になるほどよく分かった。


”自分はここまでだったのか”。


そこまで考えて。

エドワードは小さく笑った。


違う。

違うな。


今さらだ。

とっくの昔に手遅れだった。


気付いていなかったのは、自分だけだったのかもしれない。


好きだとか。

愛しているとか。


そんな言葉の話ではない。

そんなものは、もう何年も前に終わっている。


ただ。


失う未来の質量だけが

今になってようやく現実になった。


それだけだった。

暖炉の火が静かに揺れる。


エドワードは進路届を引き出しへしまった。


鍵を閉める。

何事もなかったように。

誰にも見られないように。

誰にも知られないように。


そして翌朝。

リビングのドアが勢いよく開いた。


「エド!! バカ!! 朝飯!!!」


聞き慣れた声だった。

いつも通りだった。


昨日と何一つ変わらない。


エドワードはカップを置く。

そして顔を上げた。


「……うるさい」


「なんだよその顔!」


「朝から騒ぐな」


「腹減ったんだよ!」


「君はそれしかないのか」


「あるぞ!」


「そうか」


「母さんの米炊け!」


「断る」


「なんでだよ!」


いつもの朝。

いつもの騒音。

いつもの日常。


エドワードはその光景を見ながら、ほんの少しだけ目を細めた。


春は、もう近い。

それだけが。

どうしようもなく苦しかった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ