第四百六十二話 「帰還とは、失われた日常が元通りになることではなく、一度失って初めてその重力に気付かされる現象のことである」という話
もう秒読みですもんねぇ
二月下旬。
佐伯拓海が日本へ一時帰国してから、間もなく二週間が経とうとしていた。
学園都市別邸の空気は静かだった。
いや。
”静かすぎた”。
暖炉の薪が爆ぜる音。
食器が触れ合う音。
紙をめくる音。
そんなものばかりが妙に耳につく。
たった一人いないだけだというのに、別邸はまるで別の建物になってしまったかのようだった。
もっとも。
その事実を認めようとしない男が一人いた。
エドワード・ハミルトンである。
そして。
そんな男を面白そうに観測している男も一人いた。
ジョージ・ラングレーである。
彼はエドワードへの敬意も忠誠も持っている。
だが。
遠慮という概念だけは最初から存在しなかった。
ジョージにとって、この状況は「心配」ではない。
まず最初に来る感想は、
―うわぁ。
だった。
そして、その次が、
―面白い。
である。
極めて質が悪い。
「ハミルトン様」
「何だ」
「サエキの飛行機がヒースローに到着するまで、あと二十時間ですよ」
「だから何だ」
エドワードは新聞から目を離さない。
だがジョージは知っている。
その新聞。
十分前から同じページで停止している。
「いや、別に」
ジョージは肩を竦めた。
「朝から玄関を三回ほど確認しに行った人がいたので、親切心から」
「行っていない」
「行きました」
「行っていない」
「じゃあ二回でいいです」
「認めん」
即答だった。
ジョージは吹き出しそうになる。
否定の速度だけは異常に速い。
「ハミルトン様」
「何だ」
「ところで、その新聞」
「……」
「二十分前から一ページも進んでませんよ」
「君は暇なのか」
「ええ。非常に」
ジョージは楽しそうだった。
エドワードは楽しくなかった。
昼食の時間。
食堂は相変わらず静かだった。
「静かですねぇ」
「当たり前だ」
「別邸最大の騒音源が日本ですからね」
「君はもう少し言葉を選べ」
「では、大型猛獣」
「変わらん」
ジョージは笑った。
エドワードは紅茶を口に運ぶ。
それだけだった。
だが。
その一瞬。
エドワードの視線が壁の時計へ向いたことを、ジョージは見逃さなかった。
「あと十九時間ですね」
「見ていない」
「何も言ってませんよ」
「……」
ジョージは肩を震わせた。
面白すぎる。
この男は気付いていない。
いや。
気付いていて認めていない。
その違いだ。
夜。
書斎。
エドワードは予算書類を眺めていた。
数字は頭に入っている。
内容も理解している。
仕事に支障はない。
だが。
何度も。
本当に何度も。
無意識に視線が時計へ向かう。
その度にジョージは心の中で正の字を刻んでいた。
「ハミルトン様」
「何だ」
「ちなみに今ので十一回目です」
「何がだ」
「時計です」
「……」
「十二回目」
「ジョージ」
「はい」
「君は本当に暇なのか」
「ええ。非常に」
ジョージは即答した。
サエキがいないと退屈なのだ。
別邸の日常は、あの大型犬がいて初めて完成する。
ジョージ自身もそれを認めていた。
だから面白い。
エドワードだけではない。
自分も少しだけ退屈している。
それが分かっているから。
「ところでハミルトン様」
「何だ」
「明日帰ってきますよ」
「知っている」
「でしょうね」
ジョージは笑う。
そして少しだけ真面目な声で続けた。
「でも」
「……」
「明日帰ってくるからこそ、困ってるんでしょう?」
エドワードは答えなかった。
答える必要がなかった。
ジョージは観測者だ。
見ていれば分かる。
二週間の不在は問題ではない。
問題なのは、”その先”だ。
明日。
拓海は戻ってくる。
また別邸はうるさくなる。
炭酸飲料が消える。
ソファは占領される。
意味の分からない話が始まる。
腹が減ったと騒ぐ。
日常は戻る。
だが。
六月は戻らない。
卒業は取り消されない。
その事実を、エドワードだけが先に見てしまった。
だからこそ。
明日の再会ですら、完全には喜べない。
帰ってくる。
そして、”いずれ本当に”帰ってしまう。
”その未来を知っている”。
エドワードは黙ったまま窓の外を見た。
冬の霧は深い。
だが。
その向こうにある春だけは、どうしようもなく近付いていた。
■ジョージの機密ログ(二月下旬・別邸書斎:時計確認十二回と、否認モードの魔王編)
二月下旬。
サエキ帰還前日。
僕はハミルトン様が一日で十二回ほど時計を確認するという、極めて珍しい生態を観測したよ。
なお本人は認めない。
見ていないらしい。
大した演技力だね。
サエキ。
君、本当に「帰ってくるだけで人類最強クラスの魔王を安心させ、
同時に卒業後の絶望を先送りにする猛獣」だね。
明日になれば全部元通りだ。
きっとまたうるさくなる。
でも。
それが元通りになる最後の日常に近付いていることも、ハミルトン様は知っている。
だから困る。
実に面倒だ。
そして最高に面白い。
観測日記、継続。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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