表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
514/568

第四百六十一話 「不在とは、十四日間の空白ではなく、「次は戻らないかもしれない」という未来に魔王だけが先に殺される現象のことである」という話

まあうん。とりあえず寂しい、と。

二月上旬。

学園都市の霧は深く、別邸の窓には、冬の冷気が薄く張りついていた。


春はまだ遠い。

けれど、春に向かうための書類だけは、冷徹に、そして確実に増えていく。


卒業。

帰国。

警察学校。

日本での手続き。


それらの言葉が、日常の端に少しずつ積み重なり始めていた。

佐伯拓海が、日本へ一時帰国することになったのは、その流れの中でのことだった。


帰国後からの警察学校に関する手続き。


卒業後の準備。

実家とのやり取り。

必要なものは多い。


期間は二週間。

たった十四日。


そして拓海は、卒業式の前には必ず戻ってくる。

その約束は、あまりにも当然のように、別邸の空気の中へ置かれていた。


出発前夜。


書斎の床には、拓海が詰め終えた大きなリュックが置かれていた。

正確には、詰め終えたというより、どうにか蓋を閉めたという方が近い。


服。

書類。

土産に持っていく菓子。

なぜか途中で放り込まれた雑誌。

そして、ジョージが無言で抜き取った炭酸飲料。


すべてが、いつも通りだった。


「おい、エド」


拓海はリュックの上に片手を置き、首を傾げた。


「たった二週間だぞ、バカ」


「……知っている」


エドワードはデスクに向かったまま、書類から目を上げずに答えた。

声はいつも通りだった。


低く、平坦で、何の揺らぎもない。

少なくとも、拓海にはそう聞こえた。


「二週間したら戻るぞ。卒業式まではこっちにいるんだからよ」


「……知っている」


「じゃあ、なんでそんな顔してんだよ」


「どんな顔だ」


「今すぐ世界がバグで大爆発するみたいな顔」


「君の語彙は相変わらず最悪だな」


「うるせぇな。心配すんなって言ってんだよ、バカちんが」


拓海は笑った。

心底、不思議そうに。

そして、少しだけ呆れたように。


拓海にとって、それは本当にただの二週間だった。


日本へ帰る。

用事を済ませる。

家族に会う。

少し慌ただしく過ごす。


”そして、戻る”。


それだけだ。


別れではない。

終わりでもない。

ただの一時帰国。


飛行機に乗れば行ける距離。

戻ると言えば戻れる場所。

拓海の中で、その予定には何の影も落ちていなかった。


「……君には分からんだろうな」


エドワードが、ようやく顔を上げた。

翡翠の瞳はいつも通り冷静だった。


けれど、その奥に薄く沈んだ色を、拓海は読み取らない。


読み取れないのではなく、そもそもそこに意味があると思っていない。


「あ? 何がだよ」


「その顔だ」


「顔?」


「何も気付いていない顔だ」


「お前は出発前夜に相棒の顔を悪口の素材にするな、バカ」


「悪口ではない」


「絶対悪口だろ」


いつもの応酬。

いつもの騒音。

いつもの距離。


拓海はリュックを蹴飛ばさないよう足元に寄せると、ソファに雑に腰を下ろした。


「ま、土産買ってくるからよ。母さんに頼まれたもんもあるし、

兄さんにも顔出せって言われてるし、菜摘にも会うし」


「……そうか」


「戻って三か月もしたら卒業式だろ? それ終わったら、いよいよ日本だな」


「…………」


「あー、なんか実感ねぇな」


拓海は大きく伸びをした。


「でもまあ、また来ればいいしな」


その言葉は、あまりにも軽かった。

本人に悪意はない。


慰めでもない。

強がりでもない。

本当にそう思っているだけだ。


”また来ればいい”。


”会いたければ会いに来ればいい”。


”エドワードが日本に来てもいい”


”自分がイギリスに戻ってきてもいい”。


世界は広く、空路は存在し、再会はいつでも可能だ。

拓海の中で、別れはいつもその程度のものだった。


エドワードは何も言わなかった。

ただ、書類の端を押さえていた指に、わずかに力が入った。


「お前も日本来いよ」


拓海は当たり前のように言った。


「警察学校入ったらしばらく忙しいだろうけど、休みくらいあるだろ。飯食いに行こうぜ」


「……君は、警察学校を旅行案内所か何かと勘違いしているのか」


「違うぞ。飯食う場所だ」


「なお悪い」


「いいじゃねぇか。お前、日本の飯好きだろ」


「嫌いではない」


「じゃあ決まりだな」


「何も決まっていない」


拓海は笑った。

エドワードは笑わない。

けれど、否定もしなかった。


拓海はそれを、いつものこととして受け取った。


翌朝。

拓海はいつも通り騒がしく出発した。


玄関先で荷物の重さに文句を言い、ジョージに書類の確認をされ、

エドワードに「忘れ物はないな」と低く問われ、「たぶん!」と最低の返事をした。


「たぶんで飛行機に乗るな」


「大丈夫だって」


「その大丈夫ほど信用できない言葉もない」


「うるせぇな、戻るって!」


戻る。

拓海はそう言った。


何度も。

まるで、その言葉で全てが足りると思っているように。


「行ってくる」


「ああ」


「ちゃんと飯食えよ、エド」


「君に言われる筋合いはない」


「ジョージ、こいつ見とけよ」


「はいはい。大型犬がいなくても魔王の餌やりはしておきますよ」


「誰が大型犬だ、バカ!」


最後までやかましかった。


玄関の扉が閉まる。

車のエンジン音が遠ざかる。


そして。

別邸は静かになった。


最初に気付いたのは、その静けさだった。


何も起きていない。

誰も壊れていない。

書斎も、廊下も、食堂も、昨日と同じ形を保っている。


”ただ、音が一つ足りない”。


それだけだった。


朝食の席。


エドワードはいつも通り新聞を広げた。

ジョージはいつも通り紅茶を置いた。


食器の音。

暖炉の音。

紙面をめくる音。


すべてがやけに鮮明だった。


拓海がいないだけで、部屋の空気は不自然なほど澄んでいた。


静かだ。


エドワードはそう思った。


ただ静かなだけだ。

それ以上でも、それ以下でもない。


そう処理することは簡単だった。

午前中の仕事は、驚くほど捗った。


中断がない。

突然ソファに転がり込んでくる大型犬もいない。

意味の分からない質問も飛んでこない。

腹が減ったという報告もない。


ハミルトン帝国の書類は、淀みなく処理されていった。

効率だけを考えれば、理想的ですらあった。


だからこそ、違和感があった。


昼前。


エドワードは一度だけ、ソファへ視線を向けた。

誰もいない。


当たり前だ。

拓海は日本へ向かった。


二週間で戻る。

分かっている。

分かっているのに、そこに誰もいないことが、妙に視界の端に残った。


昼食。

静かだった。


午後。

静かだった。


夕方。

静かだった。


夜。

静かだった。


”ただ、静かだった”。


三日目。


エドワードは、ようやくその静けさに名前を付けた。

違和感。


それは寂しさではない。

少なくとも、彼はそう分類した。


ただ、長年続いた日常のノイズが一時的に消えたことで、

生活音の配列に小さな不整合が生じているだけだ。


そう考えればよかった。


実際、拓海は戻る。

二週間後。

確実に。


卒業式まではここにいる。

だから、これは一時的な空白でしかない。


エドワードはデスクに向かい、ペンを持った。


だが、書類の数字を追う目が途中で止まった。


”二週間後、拓海は戻る”。


それはいい。


では、その後は?

卒業式が終われば。


次に日本へ行った後。

拓海は、もうここへ戻らない。


戻る理由がなくなる。


ハミルトン別邸のソファに転がり込み、炭酸飲料を飲み、意味の分からないことを喚き、

腹が減ったと吠える日常は、卒業式を境に終わる。


『終わる』


その単語が、エドワードの知性の奥で、冷たく固定された。


ペン先が紙の上で止まる。

インクが一点に滲んだ。


エドワードは動かなかった。


数秒。

あるいは、数十秒。


気付けば視線は書類ではなく、向かいのソファへ向いていた。


誰もいない。

今は、一時的な不在だ。

二週間後には戻る。


けれど、その静けさは、春以降の予告としてあまりにも正確だった。


この家は、拓海がいなくても機能する。


食事は出る。

書類は進む。

会議も回る。

暖炉は燃える。

紅茶は冷める。

何も壊れない。

何も止まらない。


ただ。


世界から、あのガバガバな重力だけが抜け落ちる。

それだけで、空間はこれほど冷える。


「……なるほど」


エドワードは低く呟いた。


その声は、誰にも届かなかった。


”寂しい”。


そう認めるにはまだ早い。


”苦しい”。


そう表現するには、まだ形がない。


ただ、分かってしまった。

これは二週間の空白ではない。

春以降に訪れる本物の終わりを、少しだけ先に見せられているのだ。


戻ってくる約束があるからこそ、その先にある「戻ってこない日」が、冷徹に輪郭を持ってしまった。


エドワードはペンを置いた。


乱暴ではない。

音も立てない。


ただ、静かに。

そして、もう一度ソファを見た。


そこには誰もいなかった。

当然だ。


拓海は日本にいる。

二週間後には戻る。


分かっている。

分かっているからこそ。


その次が、どうしようもなく見えてしまった。


その夜。


ジョージが書斎へ入ってきた時、エドワードはまだ同じ書類の前に座っていた。

紅茶はすっかり冷めていた。

ペンは置かれたまま。

インクの滲んだ一点だけが、紙の上に黒く残っている。


「……ハミルトン様」


「何だ」


「その書類、午前中から一枚も進んでいませんよ」


「……そうか」


「はい」


ジョージはソファを見た。


誰もいないソファ。

それから、エドワードを見た。


そして、何も言わなかった。


この男は気付いてしまったのだ。

二週間の留守が問題なのではない。

戻ってくると分かっている不在ですら、これほど静かだという事実。

その先にある、本物の不在の質量。


それを、誰よりも早く演算してしまった。


ジョージは小さく息を吐いた。


「二週間ですよ」


「知っている」


「戻ってきますよ」


「知っている」


「では、何が問題で?」


エドワードは答えなかった。

ただ、翡翠の瞳を静かに伏せた。


ジョージは肩を竦める。


「……なるほど」


答えは聞かなくても分かった。

今はまだ第一段階。

静けさに気付いた。

違和感に気付いた。

そして、未来を計算してしまった。


それだけだ。

それだけで、魔王の知性は十分に傷付いていた。


■ジョージの機密ログ(二月上旬・別邸書斎:魔王の情緒崩壊その一と、二週間の予行演習編)


二月上旬。冬の別邸。


僕は、ハミルトン様がサエキのいない空っぽのソファを、

本日最高のツヤのない顔で何度も見ているのを観測したよ。


サエキ。


君、本当に「ただ二週間ほど日本へ帰っただけで、

相棒の知性に春以降の終末シミュレーションを強制実行させる猛獣」だね。


君は戻るぞ、と笑うけれど。


その「戻る」という約束があるからこそ、ハミルトン様はその次に来る

「戻らない日」を先に演算してしまったんだよ。


なお本人は、まだこれを寂しさとは認めていない。


面倒だねぇ。

実に面倒だ。


二週間の不在。

それはただの空白ではなく、本物の終わりを一瞬だけ先に見せる、極めて冷徹な予行演習だった。


ジョージの観測日記。


この老夫婦の日常崩壊第一段階、経過観察を1200%冷徹に、

そして今回は少しだけ静かに、最後まで見届けさせてもらうよ。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ