第四百五十五話 「失恋とは、愛する相手を失う現象ではなく、自分がどれほど愛していたのかを、失った後に初めて理解する現象のことである」という話
まさかの?
十二月二十六日の深夜。
学園都市の別邸は、普段では考えられないほど静かだった。
数時間前。
カフェで全てが終わった。
文香との日常。
大学生活の残り僅かな時間。
そして、佐伯拓海が当然のように信じていた未来。
その全てが。
あまりにも呆気なく終わった。
いつもなら自室へ戻るはずの拓海は、なぜかエドワードの書斎のソファにいた。
自分でも理由は分からない。
ただ、一人になりたくなかった。
それだけだった。
暖炉の火が静かに揺れている。
書斎には時計の音だけが響いていた。
拓海は天井を見つめたまま呟く。
「……振られた」
向かいの椅子に腰掛けていたエドワードが静かに答える。
「そうか」
「なんか、完璧に振られたわ」
「そうか」
「俺、何が悪かったんだろうな」
エドワードは少し考えるように沈黙した。
そして。
「全部だ」
拓海が顔だけ向ける。
「おい」
「冗談だ」
久しぶりに聞くエドワードの皮肉だった。
だが、拓海は笑えなかった。
力なく天井へ視線を戻す。
「なぁ、エド」
「何だ」
「俺さ」
そこで言葉が止まる。
何度も喉が動く。
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「文香のこと、本当に好きだったんだな」
暖炉が小さく爆ぜた。
拓海は胸のあたりを押さえる。
そこに穴でも開いたようだった。
今まで。
毎日のように名前を呼んでいた。
会えば嬉しかった。
声を聞けば安心した。
未来の話もした。
なのに。
失うまで気付かなかった。
「いなくなってから分かったわ」
力なく笑う。
「俺、あいつのこと、そんなに好きだったんだな」
エドワードは静かに目を閉じた。
「知っている」
「そうか」
「君以外は全員知っていた」
拓海が少しだけ笑う。
「ひどくねぇ?」
「君だからな」
その返答に、少しだけ空気が和らぐ。
ほんの一瞬だけ。
だが、その静けさは長く続かなかった。
拓海は再び呟く。
「なぁ」
「何だ」
「俺さ」
沈黙。
「怒れなかった」
エドワードは答えない。
拓海は続ける。
「クリスの話聞いても」
「浮気したって聞いても」
「怒れなかった」
暖炉を見つめたまま笑う。
「普通怒るだろ」
「殴るとか」
「叫ぶとか」
「最低だって言うとか」
「そういうもんだろ」
「なのに出来なかった」
エドワードは静かに言った。
「好きだったからだ」
拓海は目を閉じた。
「そうか」
「君は最後まで、彼女の幸せを優先した」
「……そうか」
書斎に沈黙が落ちる。
しばらくして拓海がぽつりと呟いた。
「でもさ」
「何だ」
「文香だって寂しかったんだろうな」
エドワードの視線が僅かに動く。
「俺が日本の話ばっかりして」
「将来の話ばっかりして」
「置いていくみたいだったんだろうな」
「だからあいつが悪いわけじゃ――」
「タクミ」
低い声だった。
拓海が顔を上げる。
エドワードは静かに言う。
「私は彼女の話をしていない」
翡翠の瞳が真っ直ぐ拓海を見る。
「今は君の話をしている」
その言葉に。
拓海は初めて何も言えなくなった。
しばらくして。
力なく笑う。
「優しいな、お前」
「そうか?」
「そうだよ」
エドワードは何も答えなかった。
代わりに立ち上がる。
酒棚へ向かう。
拓海が声をかけた。
「エド」
「何だ」
「酒ある?」
「ある」
「飲ませろ」
少しだけ沈黙。
そして。
「良いだろう」
エドワードは静かにスコッチの封を切った。
その夜。
拓海は人生で初めてと言っていいほど酒を飲んだ。
笑った。
泣いた。
途中から何を話しているのか自分でも分からなくなった。
そして最後には。
ソファの上で眠っていた。
涙の跡を残したまま。
まるで子供のように。
静かな寝息だけが聞こえる。
暖炉の火が揺れている。
時計の針が進む。
誰もいない書斎。
エドワードは一人、ソファの傍らに立っていた。
長い沈黙。
ただ、寝顔を見つめている。
十四歳。
寄宿学校。
初めて会った日。
喧嘩。
試験。
卒業。
数え切れない日々。
その全ての中心に、いつもこの男がいた。
「……本当に」
小さな呟き。
「救いようがないな」
誰に向けた言葉だったのか。
エドワード自身にも分からなかった。
眠っている拓海は何も知らない。
これから先も知らない。
知らなくていい。
知らせるつもりもない。
ずっとそう決めていた。
これからも変わらない。
変えるつもりはない。
だから。
これは始まりではない。
終わりだった。
誰にも知られない。
誰にも祝福されない。
誰にも許される必要のない。
”ただ一人の弔い”だった。
エドワードはゆっくりと身を屈める。
「……これくらいは許せ」
その声は暖炉の音に消えそうなほど小さかった。
そして。
ほんの一瞬だけ。
眠る拓海の唇に口づける。
短い。
あまりにも短い。
まるで別れを告げるような。
祈りのような口づけだった。
離れる。
二度目はない。
最初で最後。
それで終わりだった。
エドワードは静かに目を閉じる。
そして。
眠る親友の額に落ちた前髪をそっと払った。
「おやすみ」
静かな声。
「タクミ」
返事はない。
当然だ。
拓海は眠っている。
何も知らない。
そのまま永遠に知らない。
エドワードは背を向ける。
再び椅子へ戻る。
いつものように。
何事もなかったように。
親友として。
暖炉の火だけが静かに揺れていた。
その頃。
閉ざされた書斎の扉の向こうで。
ジョージは静まり返った廊下に立っていた。
人払いは完了している。
誰も近付かない。
誰も知らない。
誰も見ていない。
だからこそ。
ジョージは小さく息を吐いた。
「……ハミルトン様」
書斎の扉の向こうへ向けて呟く。
「おめでとうございます^^」
数秒の沈黙。
そして。
扉越しに返ってきたのは。
「殺すぞ」
ジョージは思わず笑った。
本当に小さく。
誰にも聞こえない程度に。
「失礼しました」
そう言いながらも。
その表情から笑みは消えない。
十六歳の頃から見てきた。
誰よりも近くで見てきた。
だから知っている。
あの人は。
何も手に入れていない。
今も。
これからも。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
誰にも知られない形で。
長い恋に弔いを捧げたのだ。
ジョージは静かに目を閉じた。
「……おやすみなさい」
それが誰へ向けた言葉だったのか。
大型犬なのか。
魔王なのか。
あるいは。
二人の終わった青春そのものなのか。
ジョージ自身にも分からなかった
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




