第四百五十四話 「修羅場とは、怒号が飛び交う憎悪の戦場ではなく、絶対的な信頼の前で、自らの罪悪感によって崩壊した人間が、どうしても許されることに耐えられなくなる現象のことである」という話
でしょうね!
十二月二十六日。
クリスマスが終わった翌日の午後。
学園都市の小さなカフェは、まだ昨日の名残を残していた。
窓際には小さなリース。
カウンターの端には赤と金のリボン。
街路樹には、昼間になっても外されないままのイルミネーションが、白い空の下で力なく揺れている。
そんな場所の一番奥の席で、文香はずっと俯いていた。
向かい側には佐伯拓海がいる。
テーブルの上には、拓海が日本から来た姉に振り回されながらも買ってきた土産袋が置かれていた。
「これな」
拓海は少しだけ照れたように、その袋を文香の方へ押し出した。
「姉貴に連れ回されてさ。パリの高級店から、日本人向けの土産屋まで全部回らされて
死ぬかと思ったけどよ」
いつもの声。
いつもの調子。
何も知らない声。
「お前、甘いの好きだったろ。限定って書いてあったから買ってきた」
文香はその袋を見つめた。
綺麗な包装紙。
小さな金色のリボン。
拓海らしくない、少しだけ丁寧な選び方。
そのすべてが、胸を刺した。
「……ありがとう」
声が震えた。
拓海が首を傾げる。
「ん? どうした?」
何でもない。
そう言えば、今日も終わる。
笑えばいい。
ありがとう、と言って受け取ればいい。
また嘘を重ねればいい。
けれど。
もう無理だった。
「……ごめんなさい」
最初に出てきた言葉は、それだった。
拓海が瞬きをする。
「ん?」
「ごめんなさい……」
もう一度。
「ごめんなさい……」
三度目。
文香は両手を膝の上で強く握り締めた。
爪が食い込む。
痛い。
その痛みだけが、自分がまだここに座っている証拠だった。
拓海は困ったように頭を掻いた。
「だから何がだよ、バカ」
いつもの声だった。
いつもの拓海だった。
それが苦しかった。
どうしようもなく苦しかった。
「私……ずっと嘘ついてたの」
拓海の表情が少しだけ変わった。
「嘘?」
「うん」
文香は頷いた。
喉が痛い。
息がうまく吸えない。
けれど、もう止まれない。
「クリスくんと、二人で会ってた」
拓海は黙っている。
「お茶もした」
「……うん」
「送ってもらったこともあった」
「……うん」
「この間のカフェも」
声が小さくなる。
「あれ、本当は最初から二人だったの」
拓海の視線が、ほんの少しだけ動いた。
それでも彼は何も言わない。
怒らない。
責めない。
ただ、聞いている。
それが、さらに文香を追い詰めた。
「クリスマスも……」
そこで声が止まった。
言わなければならない。
でも、言いたくない。
言ってしまえば、もう戻れない。
けれど、戻れる場所なんて、もうとっくになかった。
「クリスマスも」
涙が滲む。
「クリスくんといたの」
長い沈黙。
カフェの中の音が遠くなる。
カップの触れる音。
誰かの笑い声。
店員の小さな声。
全部が遠い。
文香は唇を噛んだ。
血の味がした。
それでも続けた。
「私……」
「私……」
「一線を越えたの」
言った。
全部言った。
逃げ場のない事実。
取り返しのつかない事実。
最低な自分。
汚い自分。
見たくなかった自分。
全部。
全部。
全部。
吐き出した。
終わった。
そう思った。
怒鳴られると思った。
罵倒されると思った。
浮気女だと。
最低だと。
もう顔も見たくないと。
そう言われると思った。
そう言われる覚悟で来た。
なのに。
拓海は怒らなかった。
怒鳴らなかった。
席を立たなかった。
机を叩きもしなかった。
ただ。
小さく息を吐いて。
「あぁ……そうか」
とだけ呟いた。
文香は顔を上げた。
「……え?」
「そうだったのか」
拓海は困ったように笑った。
「最近、様子おかしかったもんな」
違う。
違う。
そんな反応じゃない。
そんな反応をしてほしかったわけじゃない。
文香の中で、何かが音を立ててひび割れた。
「なんで」
声が震える。
「なんで怒らないの……?」
拓海は首を傾げる。
本当に分からないという顔だった。
「だって」
少し考えるように視線を落とす。
そして、言った。
「お前、そのクリストファーってやつのこと好きなんだろ?」
文香は息を呑んだ。
世界が止まった。
「……え?」
「だから」
拓海は続ける。
「好きなんだろ?」
「だったら」
苦笑する。
「しょうがないじゃん」
その瞬間、文香の理性は完全に崩壊した。
「違う!!!!」
机を叩いた。
カップが揺れる。
周囲の客が振り返る。
どうでもよかった。
もう全部どうでもよかった。
「違うの!!」
涙が溢れる。
止まらない。
「違わないけど違うの!!」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
でも止まれなかった。
「怒ってよ!!」
叫んだ。
「お願いだから怒ってよ!!」
「私最低なの!!」
「浮気したの!!」
「嘘ついたの!!」
「騙したの!!」
「裏切ったの!!」
「あなたを傷付けたの!!」
声が裏返る。
息が苦しい。
涙が止まらない。
「なのに何でそんな顔してるの!?」
「何で責めないの!?」
「何で嫌いにならないの!?」
拓海は黙っていた。
ただ、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
その顔が、何より苦しかった。
怒鳴られる方が楽だった。
軽蔑される方が楽だった。
嫌われる方が楽だった。
でも、この男はそうしない。
最後まで。
自分が傷付いたことより、目の前で泣いている文香を見ている。
だから。
文香の罪悪感だけが、何倍にも膨れ上がっていく。
「私ね……」
文香は震える声で続けた。
「最初は違ったの」
「本当に違ったの」
「ただ送ってもらっただけだった」
「お茶しただけだった」
「話しただけだった」
「優しかっただけだった」
そこまで言って、文香は自嘲するように笑った。
ひどい笑い方だった。
「嘘」
首を振る。
「違う」
「気付いてた」
「私、気付いてたの」
涙が落ちる。
「クリスくんといると楽しかった」
「嬉しかった」
「私の話を聞いてくれた」
「寂しいって言わなくても分かってくれた」
「怖いって言わなくても分かってくれた」
「何も言わなくても、分かってくれた」
呼吸が乱れる。
肩が震える。
「なのに」
声が掠れる。
「なのに私……」
「拓海さんが好きだったの」
その瞬間。
拓海の表情が初めて揺れた。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
文香はそれを見逃さなかった。
「好きだったの!!」
「今も好きなの!!」
「だから苦しかったの!!」
机を叩く。
涙が飛ぶ。
「クリスくんのところへ行ったのに!!」
「あなたのこと考えてたの!!」
「それでもクリスくんのところへ行ったの!!」
「それでも行ったの!!」
「最低でしょ!?」
「気持ち悪いでしょ!?」
「私、自分でも最低だと思う!!」
「嘘ついて!!」
「隠して!!」
「裏切って!!」
「それでもあなたが好きで!!」
「それでもクリスくんのところへ行って!!」
「私、自分が何なのか分からないの!!」
文香は顔を覆った。
嗚咽が漏れる。
もう言葉にならない。
数ヶ月分の罪悪感。
数ヶ月分の後悔。
数ヶ月分の自己嫌悪。
全部が一気に溢れ出していた。
カフェの奥。
小さなテーブル。
拓海の土産袋。
泣き崩れる文香。
そのすべてが、あまりにも静かに壊れていく。
長い沈黙。
本当に長い沈黙だった。
そして。
拓海はようやく口を開いた。
「……そうか」
たったそれだけだった。
文香は顔を上げる。
目は真っ赤だった。
拓海は困ったように笑った。
いつもの。
本当にいつもの笑顔だった。
「そんなに苦しかったんだな」
その瞬間。
文香の心は完全に壊れた。
「だから怒れって言ってるでしょうがあああああああ!!!!」
悲鳴だった。
別れの言葉ではない。
許しを求める声でもない。
自分自身をどうしても許せない女が、最後にあげた壊れた悲鳴だった。
拓海は黙っていた。
しばらくして、ゆっくりと視線を落とした。
土産袋。
文香の涙。
自分の手。
その全部を見てから、低い声で言った。
「……知らねぇよ」
文香が固まる。
拓海の声が、初めて少しだけ揺れていた。
怒鳴ってはいない。
でも、いつもの軽さはなかった。
「そんなの、知らねぇよ」
拓海は顔を上げた。
「寂しいなら言えよ」
「辛いなら言えよ」
「怖いなら言えよ」
「俺が日本の話して、それが嫌だったなら言えよ」
声が大きくなる。
けれど、それは怒りではなかった。
困惑。
悲しみ。
そして、どうしようもない無力感。
「言われなきゃ分かんねぇよ」
拓海は歯を食いしばる。
「俺、エスパーじゃねぇぞ」
「お前がゼミで忙しいって言うから、頑張ってんだなって思った」
「予定あるって言うから、邪魔しねぇ方がいいと思った」
「楽しそうなら良かったって思った」
「クリスマスの埋め合わせだって、ちゃんとするつもりだった」
拓海は土産袋を見た。
「姉貴に振り回されながら、お前に渡そうと思って選んでた」
力なく笑う。
「バカだろ」
その笑顔が、文香の胸をさらに抉った。
「違う……」
文香は首を振る。
「違うの……」
「何が」
「言えなかったの!!」
文香は叫んだ。
「だって言えなかったの!!」
「困らせたくなかった!!」
「拓海さん、日本に帰るの楽しそうだった!!」
「試験の話も、実家の話も、友達の話も、全部楽しそうだった!!」
「だから言えなかった!!」
「寂しいなんて言ったら、重いって思われると思った!!」
「邪魔したくなかった!!」
「夢を邪魔したくなかった!!」
「でも寂しかった!!」
「本当に寂しかったの!!」
「私、どうしたらよかったのよ!!」
拓海の眉が歪む。
「知らねぇよ!!」
初めて。
本当に初めて。
拓海の声がカフェの奥に響いた。
文香が息を止める。
拓海はすぐに口を噤んだ。
けれど、もう遅かった。
その声には、傷があった。
怒りではなく。
痛みがあった。
「だから言えって言ってんだろ!!」
拓海は苦しそうに言った。
「俺に分かるわけねぇだろ!!」
「言わないで」
「隠して」
「嘘ついて」
「それで分かってほしかったって言われても」
「分かんねぇよ!!」
文香は何も言えなかった。
全員が正しかった。
全員が間違っていた。
文香は寂しかった。
拓海は知らなかった。
文香は言えなかった。
拓海は言われなければ分からなかった。
クリストファーは優しかった。
その優しさに文香は救われてしまった。
誰も悪人ではない。
だからこそ、救いがなかった。
長い沈黙が落ちた。
文香は泣き疲れたように肩を震わせている。
拓海はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……でも」
文香が顔を上げる。
拓海は、ひどく疲れた顔をしていた。
それでも。
どこかでいつもの拓海のままだった。
「クリスのこと、好きなんだろ?」
文香は答えられなかった。
答えなかった。
答えられないことが、答えだった。
拓海はそれを見て、小さく頷いた。
「なら」
少しだけ笑う。
「しょうがねぇよ」
文香の目が見開かれる。
「俺じゃないんだろ」
それは責める言葉ではなかった。
突き放す言葉でもなかった。
ただ、事実をそのまま置いた言葉だった。
だからこそ。
重かった。
「拓海さん……」
「ごめんな」
文香は息を呑んだ。
「……え?」
拓海は土産袋を文香の方へ少し押し出した。
「気付かなくて」
文香の顔が歪む。
「やめて……」
「ん?」
「そんなこと言わないで……」
涙がまた溢れる。
「お願いだから……」
「拓海さんが謝らないで……」
拓海は何も言わなかった。
ただ困ったように笑った。
その笑顔を見て。
文香はようやく理解した。
自分達はもう戻れない。
この人の隣に戻る資格を、自分は自分の手で壊した。
それでも。
この人は最後まで、自分を責めてはくれない。
その優しさこそが。
この修羅場で一番残酷な刃だった。
カフェの窓の外では、昼の白い光の中で、クリスマスの飾りがまだ外されないまま揺れていた。
二人の十ヶ月の日常は。
その光の下で。
音もなく、完全に終わった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




