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第四百五十一話 「泥沼とは、一度踏み込んだ瞬間に沈む危険地帯ではなく、「今さら本当のことを言えない」という理由によって、自ら一歩ずつ深みに向かって歩いていく現象のことである」という話

始めはちょっとしたことなんだけどね。

十一月上旬。

二人きりのお茶会の後。


クリストファーとのお茶会は楽しかった。

本当に、言葉にできないほど楽しかった。


笑って。

話して。

極上の紅茶を飲んで。

気が付けば窓の外は夕暮れに染まり、二人の会話は途切れることなく続いていた。


帰り道。

肩が触れた。

触れたまま歩いた。


クリストファーの手がそっと文香の手を包んだ。


振り払えなかった。

振り払わなかった。

ただ、それだけ。


ただ、それだけだったのに。


文香はその数時間、自分が何を隠しているのかすら忘れていた。


拓海のこと。

胸の奥に沈み始めた罪悪感のこと。


”そのすべてを”。


だから。

帰宅してスマートフォンを開いた瞬間、胸の奥が凍りついた。


【拓海:皆とのお茶会、楽しかったか?】


文香の指が止まる。

続いて、もう一件。


【拓海:今度は俺と二人で行こうぜ!】


画面が滲む。

返信ができない。


クリストファーと過ごした時間は楽しかった。

その事実が苦しかった。


けれど。

本当に苦しかったのは別のことだった。


あの数時間。

自分は拓海の存在を完全に忘れていた。

その事実が、何より恐ろしかった。


*****************


数日後。


学園都市のラグビー部ラウンジ。


「なあ、タクミ」


クラブ仲間が珍しく真面目な顔をしていた。


「ん?」


「悪いこと言わねぇ」


「なんだよ」


「この間、お前の彼女見た」


拓海は首を傾げた。


「文香?」


「ああ」


「元気そうだったか?」


「そこじゃねぇ」


仲間達が顔を見合わせる。

そして一人がため息を吐いた。


「金髪のやつと二人だった」


「クリス?」


「たぶん」


「へぇ」


「へぇじゃねぇよ」


「かなりいい雰囲気だったぞ」


「手も繋いでた」


「帰り際なんか完全にそういう空気だった」


沈黙。


数秒後。

拓海は豪快に笑った。


「あはははは!」


全員が頭を抱えた。


「文香は可愛いからな!」


「お前なぁ……」


「クリスも良い奴だしな!」


「だからそういう話じゃなくて」


「仲良いんだろ!」


「お前本当にバカだろ」


「バカはお前だ!」


拓海はケラケラ笑った。

一ミリも疑っていない。

彼にとって文香は信頼する相手だった。

だから疑うという発想そのものが存在しない。


*****************


けれど。


その日の夜。

珍しく拓海はスマートフォンを開いた。


疑っているわけではない。


ただ。

ここまで皆が言うなら確認しておこう。

その程度だった。


【拓海:そういやさ】


文香の心臓が嫌な音を立てる。


【拓海:この間のカフェ、ゼミのみんなと一緒だったんだよな?】


呼吸が浅くなる。


ここで言える。

まだ言える。

今なら全部言える。


本当は二人きりだったこと。

手を繋いだこと。

帰り道が少しだけ特別だったこと。


全部。

全部。


けれど。

文香の指は別の言葉を打ち込んでいた。


【文香:うん!】


送信。


そして。

さらに続ける。


【文香:でもね、途中でみんな帰っちゃって】


【文香:最後だけゼミの男の子と二人になっちゃった】


【文香:あ、もちろんそのあとすぐ帰ったよ!】


送信。

送信。

送信。


文香は画面を見つめた。


今。

初めて。

自分は”自分の意思で嘘を作った”。


最初は省略だった。

次は正当化だった。


そして今。

明確な虚偽を、自ら補強した。


*****************


返信はすぐに来た。


【拓海:そっかwww】


【拓海:だよな!】


【拓海:なんか周りが変に勘ぐっちゃってよ!】


【拓海:変なこと聞いてごめんな、バカ!】


文香は目を閉じた。

胸の奥が痛む。


苦しい。

申し訳ない。

最低だと思う。


けれど。

ふと気付いてしまった。


(……あれ)


(前より苦しくない)


その事実が恐ろしかった。


最初の省略の夜は眠れなかった。

手も震えた。

罪悪感で何度もスマートフォンを開いた。


でも今は違う。

もう普通に返信できる。


”何事もなかったように”。


【文香:ううん!】


【文香:こっちこそごめんね!】


送信。


画面が暗くなる。

暗闇の中で。

文香は静かに思った。


(……私)


(慣れてきてる)


その瞬間。


胸の奥で何かが静かに沈んだ。

人は大きな嘘に慣れるのではない。

小さな嘘に慣れる。


そして。

その嘘が苦しくなくなった時。


”泥沼の蓋は完全に開く”のである。


*****************


一方、その頃の別邸。


「あー、クソ」


拓海はソファで唸っていた。


「どうした」


新聞の向こうからエドワードが聞く。


「明日の昼飯どうするか迷ってる」


エドワードは新聞を下ろした。


そして。


本日最高の。

世界で一番冷たい目で。

親友を見た。


「タクミ」


「なんだ」


「君は本当に救いようがないな」


「なんでだよ、バカ!!」


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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