表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
502/568

第四百五十話 「嘘とは、事実と異なる内容を意図的に伝える行為ではなく、言えば説明が面倒になる出来事を「わざわざ言わなくてもいいか」と判断した瞬間に静かに生成される現象のことである」という話

うーーーんこの・・・(。-`ω-)

十一月上旬。

学園都市の空気はいよいよ肌を刺すような冷たさを帯び、

街路樹の葉がコンクリートの床に寂しげなドットを描いていた。


今回の主役は日向文香。


重要なのは、彼女が「浮気をしたい」と願ったわけでも、自らの知性に

「明確な虚偽(隠蔽)」をプロファイリングしたわけでもないという点だ。


ただ、ほんの僅かな「言わなくてもいいかな」という省略。

すべての泥沼エラーコードは、その一瞬のノイズから静かに生成された。


**********************


ゼミの居残り帰り。

すっかり暗くなった廊下に、研究室の灯りだけが白く残っていた。


「フミカ、駅まで送るよ。もうこんな時間だ」


クリストファーが鞄を肩にかけながら言った。


「あ、大丈夫だよ、クリスくん。バスもあるし……」


「でも暗いからね」


クリストファーはさらりと微笑む。


「女の子を一人で歩かせるわけにはいかないな」


「……じゃあ、途中まで」


ここまでは、ごく普通の親切であり、健全な日常の範疇だった。


実際、何も起きていない。

手を繋いだわけでもない。

隠れて会ったわけでもない。


ただ、同じ研究室の同級生が、暗くなった帰り道を途中まで送ってくれただけ。


だから。

帰宅後、ベッドの上でスマートフォンが震えた時も、文香はいつものように画面を開いた。


【拓海:今日どうだった、バカ?】


いつも通りの、雑で、明るくて、疑うことを知らないメッセージ。

文香は少しだけ笑って、文字を入力した。


【文香:いつも通りだよ】


送信。


その直後。

指が、ぴたりと止まった。


(あ……)


いつも通り、ではなかった。


クリスくんと帰った。

そう思った瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれる。


でも、別に悪いことをしたわけじゃない。


”ただ送ってもらっただけ”。


それをわざわざ言って、変に誤解されたら面倒だ。


あのガバガバな大型犬が「あいつ誰だ、バカ!」と騒いだら、それを説明する方が大変だ。


だから。


わざわざ言わなくてもいい。

嘘ではない。

ただの省略。


けれど、それが文香の脳内サーバーに初めて登録された、不純なブランクだった。


**********************


翌日の研究室。

昼前のゼミ室には、参考文献をめくる紙の音と、キーボードを叩く小さな音だけが響いていた。


「今日も一緒にランチどう?」


クリストファーが隣から声をかけてくる。


「君に教えたい、イギリスの伝統的なミートパイの店があるんだ」


「うん、いいよ」


文香は自然に頷いた。


クリストファーは嬉しそうに笑った。

その顔を見て、文香も少しだけ笑う。


楽しかった。

ただ、それだけだった。


ミートパイは美味しかったし、クリストファーの話は面白かった。


研究のこと。

卒業後のこと。

ロンドンのこと。


文香がまだ知らないこの国の日常を、彼は当たり前のように語ってくれる。

その当たり前の中に自分が座っていることが、少しだけ心地よかった。


帰宅後。

再びスマートフォンが震える。


【拓海:今日何食った、バカ?】


文香は画面を見つめた。

少し考えてから、返信する。


【文香:ゼミの仲間と学食】


本当のことだ。

嘘はついていない。


クリストファーはゼミの仲間だし、大学近くの店で食べたのも、

広い意味では学食の延長みたいなものだ。


ただ。


「クリスくんと二人で」という主語を消しただけ。


夜。

毛布にくるまりながら、文香は自分の送信履歴を見つめていた。


(……私、なんで言わなかったんだろう)


別に隠す必要なんてない。

本当に。

隠す必要なんて、ないはずなのに。


胸の奥に、じわじわとした小さな罪悪感が定着し始める。


けれど。


翌日大学へ行けば、クリストファーはいつも通りの笑顔で、


「おはよう、フミカ」


と声をかけてくれる。


優しくて。

自然で。

甘くて。


一緒にいる空間は楽しく、穏やかで、満ち足りている。


だから。


その罪悪感は、いつの間にか後回しにされていった。


**********************


そして、決定的なシステムエラーが訪れる。


夕方。

スマートフォンに、拓海からいつになく前向きなメッセージが届いた。


【拓海:明日の夕方、一緒にカフェでも行こうか? 最近忙しくて、

あんまり一緒にいられなかったしな、バカ】


文香の指が、凍りついたように止まる。


明日。

クリストファーと、二人きりで新しくできたお茶の店に行く約束をしていた。


まだ、何も起きていない。

本当に、ただお茶を飲むだけ。


けれど。


拓海に誘われた瞬間、初めてその予定が「説明しなければならないもの」になった。


文香は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


拓海と会いたくないわけではない。

会いたい。

本当は会いたい。


それなのに。


クリストファーとの約束を断る、という選択肢がすぐには出てこなかった。

そのことに気付いた瞬間、文香は自分が少しだけ怖くなった。


それでも、指は動いた。


【文香:あ……ごめんね。明日はゼミの人達と予定があって】


送信。


数秒後、画面には何の疑いもない爆音が即答で返ってきた。


【拓海:そっか! それじゃしょうがないな! 最近構えなくてごめんな、バカ! 楽しんでこいよ!】


疑い、ゼロ。

一ミリもない。


文香はスマートフォンを胸の前に抱きしめた。

心臓が痛いほどに警報を鳴らしている。


けれど、文香は心の中で必死にそのログを書き換えようとしていた。


(……嘘じゃない)


(嘘じゃないよね)


(だって、クリスくんはゼミの仲間だし)


(ゼミの人達と予定があるって、間違ってはいない)


(本当に悪いことをしているなら、こんなに苦しくないはずだ)


(だから、大丈夫)


(私は間違ってない)


(……間違って、ないよね)


そう思わなければ、自分の知性が崩壊してしまうから。


彼女は今、悪いことをしているのではない。

必死に、自分を「間違ってはいない」と正当化しようともがいているだけだった。


**********************


その日の帰り道。

夕暮れのゼミ室の外周。


「フミカ」


クリストファーが声をかけてきた。


「明日、ありがとう」


「え? 何が?」


「僕との約束を優先して、来てくれて」


クリストファーは少しだけ照れたように笑った。


「すごく嬉しいよ」


「……ううん」


文香は小さく俯いた。

その瞬間、彼女の胸を支配したのは、

拓海に「言わなかっただけ」の嘘をついた罪悪感ではなかった。


(……クリスくんが、あんなに嬉しそうにしてくれてる……)


そちらの甘い充足感を、先に知性がシステムとして処理してしまったのだ。


拓海の、


『楽しんでこいよ』


という何の疑いもない信頼。


クリストファーの、


『来てくれて嬉しい』


という真っ直ぐな喜び。


その二つが、文香の胸の中で重なり、比べてはいけないものとして比べられてしまう。


ハミルトンの防衛網の遥か外側で、大和撫子の心の檻は、

完全にパツキンの外貨によって内側から溶かされ始めていた。


**********************


一方、その頃の別邸リビング。


「あー、クソ」


拓海はソファに寝転がりながら、真剣な顔で天井を睨んでいた。


「明日の昼飯、何にすっかな」


エドワードは新聞から目を上げない。


「好きにしろ」


「好きにしろって言われると逆に困るだろ、バカ!」


「なら聞くな」


「冷たいな!」


「事実だ」


「ジョージ! 明日の昼飯、何がいいと思う?」


「サエキ。君の人生にはもう少し考えるべきことがあると思うよ」


「あ? 昼飯より大事なことって何だよ」


「……そうだね」


ジョージは静かに緑茶を注いだ。


「君に聞いた僕が悪かった」


野生の大型犬は、明日恋人が別の男のハチミツにじわじわと漬け込まれていくことなど一ミクロンも気づかず、本日最高の、何の汚れもないツヤのある顔で明日のメニューに頭を悩ませていた。


この日。

文香はまだ、自分が浮気をしているとは思っていなかった。


だからこそ。

日常の完全な、そして再起不能な泥沼化への秒読みが、ここに静かに開始されたのである。


■ジョージの機密ログ(十一月某日・ゼミ室外周:小さな省略と、魔王の時計停止編)


十一月某日。


秋の学園都市。


僕は、文香さんが『明日会うのがクリスくんだけ』という事実を、

「ゼミの予定」という完璧な正当化のオブラートに包んでサエキに送信するのを観測したよ。


サエキ。


君は本当に、恋人が泥沼の一歩を踏み出した瞬間に、明日の昼飯の心配しかしていない猛獣だね。


君は楽しんでこいよ、と笑う。

君は最近構えなくてごめんな、と謝る。


君は何一つ疑わない。


だが、その無警戒な善意のガトリングを即答している一秒一秒、

君の恋人は『言わなかっただけ』という非常に便利な嘘のシステムに、少しずつ慣れ始めているんだよ。


人は最初の嘘に苦しむ。

二回目からは、それを日常と呼び始める。

三回目には、その嘘を維持するための理由を探し始める。


文香さんはまだ、自分を善人だと思っている。


だからこそ、このエラーは誰にもデバッグできない。


ハミルトン様。


君は今、別邸のソファで、サエキが明日の昼飯、と騒いでいるのを新聞の裏で聞きながら、

本日最高の、世界で一番冷徹な顔で、


(……あぁ、タクミ。君の檻はもう、半分以上パツキンの引力によって内側から解体されているよ。

なぜ気づかない、バカ……)


と、静かにこの香ばしすぎる破滅のログを定点観測しているね。


浮気はキスから始まるんじゃない。

明確な虚偽からでもない。


「わざわざ言わなくてもいいか」が初めて発生した、その瞬間から始まる。


こレから始まる最高の泥沼回。


ジョージの観測日記。


この老夫婦の日常の完全なる解体ショー、経過観察を1200%冷徹に、

そして最高に腹を抱えてニヤニヤしながら継続させてもらうよ。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ