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第四百四十九話 「浮気とは、キスや抱擁のような分かりやすい境界線を越える行為ではなく、本来なら恋人に向けるはずだった「弱さ」と「安心」を、気づけば別の誰かに預けてしまっている現象のことである」という話

みんなちょっとづつ悪いよなぁ

十一月中旬。

学園都市はすっかり晩秋の空気に包まれていた。


事件は何一つ起きていない。


しかし。


それでもなお。


後から振り返れば、この日が確かに「始まり」だったのだと、誰もが認めることになる。


**********************


その日。


研究室には文香とクリストファーだけが残っていた。


窓の外はもう暗い。

机の上には参考文献。

ノートパソコン。

飲みかけの紅茶。

そして終わらない課題。


「……疲れた」


珍しく。

本当に珍しく。

文香は弱音を吐いた。


クリストファーが顔を上げる。


「フミカ?」


「ごめん。なんでもない」


「いや、なんでもなくない顔だったよ」


困ったように笑われる。

文香も少しだけ笑った。


「最近ずっと無理してるんじゃない?」


「そんなことないよ」


「あるよ」


即答だった。

クリストファーはペンを置く。


「君、自分のことになると本当に鈍いよね」


「そんなこと……」


「ある」


また即答だった。


青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。


責めるでもなく。

問い詰めるでもなく。

ただ心配そうに。


それだけだった。


**********************


結局。

二人は研究室を出た。


クリストファーが知っている小さなカフェ。


観光客はあまり来ない、学生が本を読むような静かな店だった。


「ここ好きなんだ」


クリストファーが言う。


「落ち着くから」


紅茶が運ばれてくる。


甘い香り。

静かな音楽。

窓の外では街灯が濡れた石畳を照らしていた。


しばらく二人は他愛もない話をした。


研究の話。

授業の話。

卒業後の話。


そして。


気がつけば。

話題は自然に拓海になっていた。


「彼、日本に帰るんだよね」


「うん」


「寂しい?」


文香は答えなかった。

答えられなかった。

沈黙が答えだった。


クリストファーはそれ以上聞かなかった。


ただ。


小さく笑った。


「そうだよね」


その一言だけだった。


**********************


責めない。

否定しない。

笑わない。

説教もしない。


ただ。


「そうだよね」


と言っただけ。


それだけだった。

それだけなのに。

文香は泣きそうになった。


”拓海が悪いわけじゃない”。


そんなことは分かっている。


夢がある。

帰る場所がある。

友人がいる。

家族がいる。

だから日本へ帰る。


当たり前だ。

何も悪くない。


それでも。


寂しいものは寂しい。

苦しいものは苦しい。


その当たり前を。


クリストファーは何の苦労もなく理解してしまった。


**********************


帰り道。

駅前の風は冷たかった。


「ありがとう」


文香が言う。


「何が?」


「今日」


クリストファーは少し驚いた顔をした。


それから。

いつものように笑った。


「僕は何もしてないよ」


「そんなことない」


「そう?」


「うん」


沈黙。


少しだけ長い沈黙。


そして。

文香は気付いてしまった。


今日一日。


研究室で疲れたことも。

将来への不安も。

拓海への寂しさも。


全部。


クリストファーに話していた。


本来なら。


”恋人に話すはずだったこと”を。


**********************


その夜。


文香はベッドの上でスマートフォンを見つめていた。


拓海とのトーク画面。


開いて。

閉じる。


開いて。

閉じる。


伝えたいことはある。

たくさんある。


でも。

うまく言葉にならない。


ふと。


今日のカフェが頭をよぎる。


紅茶の香り。

静かな店内。

青い瞳。


「そうだよね」


という声。


胸が痛んだ。


そして。

その痛みの理由に気付いてしまった。


何もしていない。

本当に何もしていない。


それなのに。


今日一番会いたかった相手は。


拓海ではなく。

クリストファーだった。


「……最低」


誰に聞かせるでもなく呟く。


スマートフォンの画面には。

数時間前に届いたメッセージが残っていた。


『文香!! 明日休みだから白米炊くぞ!! バカ!!』


涙が出そうになった。


本当に。

どうしようもなく。

拓海らしいメッセージだった。


**********************


その頃。


別邸。


「ふごぉ……」


大型犬は寝ていた。

今日も平和だった。


「むにゃ……白米……」


【Takumi OS:異常なし】


異常なし。

完全に異常なし。


恋人が人生最大級の自己嫌悪と戦っていることも。

研究室でパツキンと紅茶を飲んでいたことも。


何一つ知らない。


拓海は幸せそうに白米の夢を見ていた。


■ジョージの機密ログ(十一月中旬・静かな浮気編)


十一月中旬。


僕は今日、浮気というものを観測した。


キスはない。

抱擁もない。

手を繋いですらいない。


だが。


恋人に向けるはずだった弱音と安心を、別の誰かに預けてしまった瞬間。

確かに何かが始まった。


サエキ。

君は本当にどうしようもないね。


君の恋人が人生最大級の自己嫌悪と戦っている横で、白米の夢を見ながら爆睡している。

ある意味では才能だ。


クリストファーくんは悪くない。

文香さんも悪くない。

もちろんサエキも悪くない。


だからこそ厄介なんだ。


誰も悪くないまま。

物語だけが静かに壊れ始めている。




ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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