第四百四十九話 「浮気とは、キスや抱擁のような分かりやすい境界線を越える行為ではなく、本来なら恋人に向けるはずだった「弱さ」と「安心」を、気づけば別の誰かに預けてしまっている現象のことである」という話
みんなちょっとづつ悪いよなぁ
十一月中旬。
学園都市はすっかり晩秋の空気に包まれていた。
事件は何一つ起きていない。
しかし。
それでもなお。
後から振り返れば、この日が確かに「始まり」だったのだと、誰もが認めることになる。
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その日。
研究室には文香とクリストファーだけが残っていた。
窓の外はもう暗い。
机の上には参考文献。
ノートパソコン。
飲みかけの紅茶。
そして終わらない課題。
「……疲れた」
珍しく。
本当に珍しく。
文香は弱音を吐いた。
クリストファーが顔を上げる。
「フミカ?」
「ごめん。なんでもない」
「いや、なんでもなくない顔だったよ」
困ったように笑われる。
文香も少しだけ笑った。
「最近ずっと無理してるんじゃない?」
「そんなことないよ」
「あるよ」
即答だった。
クリストファーはペンを置く。
「君、自分のことになると本当に鈍いよね」
「そんなこと……」
「ある」
また即答だった。
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
責めるでもなく。
問い詰めるでもなく。
ただ心配そうに。
それだけだった。
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結局。
二人は研究室を出た。
クリストファーが知っている小さなカフェ。
観光客はあまり来ない、学生が本を読むような静かな店だった。
「ここ好きなんだ」
クリストファーが言う。
「落ち着くから」
紅茶が運ばれてくる。
甘い香り。
静かな音楽。
窓の外では街灯が濡れた石畳を照らしていた。
しばらく二人は他愛もない話をした。
研究の話。
授業の話。
卒業後の話。
そして。
気がつけば。
話題は自然に拓海になっていた。
「彼、日本に帰るんだよね」
「うん」
「寂しい?」
文香は答えなかった。
答えられなかった。
沈黙が答えだった。
クリストファーはそれ以上聞かなかった。
ただ。
小さく笑った。
「そうだよね」
その一言だけだった。
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責めない。
否定しない。
笑わない。
説教もしない。
ただ。
「そうだよね」
と言っただけ。
それだけだった。
それだけなのに。
文香は泣きそうになった。
”拓海が悪いわけじゃない”。
そんなことは分かっている。
夢がある。
帰る場所がある。
友人がいる。
家族がいる。
だから日本へ帰る。
当たり前だ。
何も悪くない。
それでも。
寂しいものは寂しい。
苦しいものは苦しい。
その当たり前を。
クリストファーは何の苦労もなく理解してしまった。
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帰り道。
駅前の風は冷たかった。
「ありがとう」
文香が言う。
「何が?」
「今日」
クリストファーは少し驚いた顔をした。
それから。
いつものように笑った。
「僕は何もしてないよ」
「そんなことない」
「そう?」
「うん」
沈黙。
少しだけ長い沈黙。
そして。
文香は気付いてしまった。
今日一日。
研究室で疲れたことも。
将来への不安も。
拓海への寂しさも。
全部。
クリストファーに話していた。
本来なら。
”恋人に話すはずだったこと”を。
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その夜。
文香はベッドの上でスマートフォンを見つめていた。
拓海とのトーク画面。
開いて。
閉じる。
開いて。
閉じる。
伝えたいことはある。
たくさんある。
でも。
うまく言葉にならない。
ふと。
今日のカフェが頭をよぎる。
紅茶の香り。
静かな店内。
青い瞳。
「そうだよね」
という声。
胸が痛んだ。
そして。
その痛みの理由に気付いてしまった。
何もしていない。
本当に何もしていない。
それなのに。
今日一番会いたかった相手は。
拓海ではなく。
クリストファーだった。
「……最低」
誰に聞かせるでもなく呟く。
スマートフォンの画面には。
数時間前に届いたメッセージが残っていた。
『文香!! 明日休みだから白米炊くぞ!! バカ!!』
涙が出そうになった。
本当に。
どうしようもなく。
拓海らしいメッセージだった。
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その頃。
別邸。
「ふごぉ……」
大型犬は寝ていた。
今日も平和だった。
「むにゃ……白米……」
【Takumi OS:異常なし】
異常なし。
完全に異常なし。
恋人が人生最大級の自己嫌悪と戦っていることも。
研究室でパツキンと紅茶を飲んでいたことも。
何一つ知らない。
拓海は幸せそうに白米の夢を見ていた。
■ジョージの機密ログ(十一月中旬・静かな浮気編)
十一月中旬。
僕は今日、浮気というものを観測した。
キスはない。
抱擁もない。
手を繋いですらいない。
だが。
恋人に向けるはずだった弱音と安心を、別の誰かに預けてしまった瞬間。
確かに何かが始まった。
サエキ。
君は本当にどうしようもないね。
君の恋人が人生最大級の自己嫌悪と戦っている横で、白米の夢を見ながら爆睡している。
ある意味では才能だ。
クリストファーくんは悪くない。
文香さんも悪くない。
もちろんサエキも悪くない。
だからこそ厄介なんだ。
誰も悪くないまま。
物語だけが静かに壊れ始めている。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




