第四百四十八話 「英国男子とは、過剰なハチミツを日常会話に混入し、大和撫子の情緒を1200%の戦闘配置で叩き割る大型犬である」という話
まぁそうですよね
十月下旬、学園都市の専門研究室。
日本の空港で「ラーメン、バカ!!」と吼えていた佐伯拓海がロンドンへ帰還し、
いつも通りのバカ日常が再起動した、その直後のことである。
事件は何一つ起きていない。
陰謀もない。
気になる男も地下倉庫で管理責任者つきのまま大人しく保管されている。
だが。
ハミルトンの防衛網の完全な外側で、金髪に青い瞳の英国大学生による
「ナチュラルな砲撃」が、静かに開始されていた。
クリストファーにとって、同じゼミの日本人留学生である文香は、
自らの知性がバグを起こすほどに魅力的な存在だった。
頭がいい。
優しい。
礼儀正しい。
そして、可愛い。
何より、クリストファーにとって文香の「大和撫子な日常ログ」は破壊力抜群だった。
お茶を淹れてくれれば、
「ありがとう」
課題を手伝えば、
「ありがとう」
重い資料を代わりに持てば、
「ありがとう、クリスくん」
イギリスの自己主張が1200%標準装備された女子大生たちを見慣れたクリストファーにとって、
文香のその一挙手一投足は、解像度高めの「可愛い」の塊に他ならなかった。
だから、英国男子は何の躊躇もなく、そのナチュラルなハチミツ漬けを日常会話として執行する。
「フミカ、今日も可愛いね」
「え……? あ、ありがとうございます……」
文香は瞬きをした。
頬が熱い。
心拍数が不自然に上がる。
「どうかした?」
クリストファーは不思議そうに首を傾げた。
悪気はない。
本当にない。
彼にとって「素敵」「綺麗」「可愛い」は、過剰な攻略文句ではなく、
紅茶に砂糖を一匙入れる程度の自然な言葉なのだ。
*******************
一方、その頃の佐伯拓海。
「おー、文香! 今日も可愛いな!」
なんて言うわけがなかった。
絶対に言わない。
野生の大型犬の口から出る最初のログは、いつだってこれである。
「あー、クソ、腹減った、バカ!!」
通常運転だった。
あまりにも通常運転だった。
文香からすれば、日常の解像度が少しずつ狂い始めていた。
クリストファーは言う。
「君の笑顔、本当に好きだな。今日はいつも以上に素敵だよ、フミカ」
拓海は言う。
「日本のラーメン、マジで最高だったぞ、バカ!!」
片方はハチミツ。
片方はラーメン。
片方は青い瞳で真っ直ぐこちらを見る。
片方はマヨネーズと炭酸飲料の話をしている。
この温度差は、冷静に考えればあまりにも酷かった。
だが、クリストファーの恐ろしいところは、「攻略しよう」という下心が
濃厚にあるわけではない点だった。
フミカが元気がない。
助けたい。
笑ってほしい。
なぜなら、彼女は笑っている方がずっと綺麗だから。
ただそれだけの、シンプルで、善意に満ちた、けれども日本人女子の情緒にはあまりにも
高カロリーな英国男子の通常営業で、彼は拓海の留守中に空いた文香の心の隙間を、
本人も気づかぬまま埋めにかかっていた。
*******************
その日の夕方。
居残りのゼミ室。
窓の外では、秋の夕日が学園都市の石造りの建物を淡く染めていた。
文香は開いたノートの前で、しばらくペンを止めていた。
文字が入ってこない。
参考文献の一文を読んでも、頭の中を通り過ぎていくだけだった。
拓海は帰ってきた。
会えた。
嬉しかった。
それは本当だ。
けれど、ヒースロー空港で聞いた、
『三週間なんて、マジであっという間だったな!』
という声が、どうしても耳の奥に残っている。
自分にとっては、あんなにも長かった三週間。
既読を待って。
時差を数えて。
雨音を聞いて。
スマートフォンの画面を何度も開いた三週間。
それが拓海にとっては、ラーメンと道場と実家と友人と試験で埋まった、あっという間の時間だった。
それが悪いわけではない。
拓海は何も悪くない。
それが分かっているから、余計に苦しかった。
「フミカ」
静かな声がした。
顔を上げると、隣の席にクリストファーが立っていた。
「最近ずっと元気がないね。どうかしたの?」
「……ううん、何でもないよ、クリスくん」
「本当に?」
クリストファーは机の端に軽く手を置き、少しだけ身を屈めた。
青い瞳が、逃げ道を塞ぐようにではなく、ただ心配そうにこちらを見ている。
「彼のこと?」
文香の指が止まった。
「先日、日本から帰ってきたって言っていただろう?」
「……」
「違うならごめん。でも、君はその話をすると、少し寂しそうな顔をするから」
文香は、思わず視線を落とした。
「……うん」
小さな声だった。
「……彼、日本に帰るのが本当に楽しそうだったの」
言葉にしてしまうと、胸の奥に沈んでいたものが少しだけ形を持った。
「実家もあって、友達もいて、将来の夢もあって……当たり前なんだけどね」
文香は笑おうとした。
けれど、その笑顔はうまく作れなかった。
「私も嬉しいはずなの。拓海さん、ずっと警察官になりたいって言ってたから。
夢に向かってるんだから、応援したいの」
「うん」
「でも……向こうの話をしてる時、本当に楽しそうで」
喉の奥が詰まる。
「私だけが、イギリスに置いていかれるみたいで」
研究室は静かだった。
遠くで誰かが廊下を歩く音がして、それもすぐに消えた。
「すごく遠く感じちゃって……」
付き合いたての幸せの裏で、初めて漏らした本物の弱音だった。
クリストファーはすぐには何も言わなかった。
いつもの軽い笑顔も、爽やかな冗談もない。
ただ、真剣な顔で文香を見ていた。
「それは」
ゆっくりと口を開く。
「寂しいよ」
文香は目を上げた。
「え……?」
「だって、君は彼のことが好きなんだろう?」
「……うん」
「だったら寂しいに決まってる」
その言葉は、ひどく単純だった。
単純で。
だからこそ、逃げ場がなかった。
文香は唇を噛む。
自分でも分からなかった気持ちを、彼はあまりにも自然に言葉にした。
寂しい。
ただ、それだけ。
誰が悪いわけでもない。
拓海が悪いわけでもない。
自分がわがままなわけでもない。
”好きだから寂しい”。
その当たり前を、文香は今まで誰にも言えずにいた。
「でも」
クリストファーは少しだけ困ったように笑った。
「僕は少し不思議かな」
「……何が?」
「君がそんな顔をしていること」
「……」
「フミカ」
青い瞳が、真っ直ぐにこちらを見る。
「僕はね。君が笑っている方の顔が、世界で一番好きだな」
息が止まった。
まるで、天気の話でもするように。
けれど、逃げ道を与えないほど真っ直ぐに。
クリストファーはそう言った。
文香は何も返せなかった。
クリストファーはふっと優しく微笑む。
「それに」
「……それに?」
「君みたいな子を、そんな顔にさせるなんて」
少しだけ肩を竦める。
「もったいないよ」
ぐらり、と。
足元の地面が、静かに揺れた気がした。
『可愛い』よりも。
『好き』よりも。
『僕なら泣かせない』という分かりやすい口説き文句よりも。
その一言は、不思議なくらい文香の胸の奥へ届いてしまった。
もったいない。
自分がそんな顔をしていることを、誰かが惜しんでくれている。
その事実が、胸の奥に甘く、苦く、定着していく。
「あ、……クリス、くん……」
「ごめん。余計なことを言ったかな」
「ううん」
文香は首を振った。
「……ありがとう」
その声は、自分でも驚くほど弱かった。
そして、少しだけ震えていた。
*******************
その夜。
文香は自室のベッドの中で、何度も寝返りを打っていた。
眠れない。
目を閉じても、研究室の夕暮れが浮かぶ。
青い瞳。
困ったような笑顔。
低く、優しい声。
『君が笑っている方の顔が、世界で一番好きだな』
『君みたいな子を、そんな顔にさせるなんて、もったいないよ』
なんで?
なんで、あんなことを言うのだろう。
拓海は好きだ。
それは変わらない。
会えた時、本当に嬉しかった。
抱き寄せられた時、ちゃんと安心した。
そのはずなのに。
胸の奥に、クリストファーの言葉が残っている。
甘すぎるハチミツのように。
消えないノイズのように。
文香は布団を引き寄せ、目を閉じた。
けれど、眠りはなかなか訪れなかった。
*******************
一方、その頃。
別邸の拓海の部屋。
「ふごぉ……ッ」
大型犬は寝ていた。
それはもう、見事に寝ていた。
「むにゃ……ラーメン……バカ……」
【Takumi OS:完全な睡眠】
異常なし。
自分の知らないところで、恋人の心の聖域に、金髪パツキンの超高性能な伏兵が
じわじわと砲撃を開始していることなど、野生のパラディンの知性では一生デバッグできない。
拓海は今日も、何一つ知らないまま幸せそうに眠っていた。
*******************
■ジョージの機密ログ(十月下旬・ゼミ室〜深夜の別邸:パツキンの主砲と、大型犬の爆睡編)
十月下旬。
秋の学園都市。
僕は、クリストファーくんが『君が笑っている方が好きだ』という、ナチュラルにして最高出力の
ハチミツ爆弾を、文香さんの脳内にダイレクト着弾させるのを観測したよ。
サエキ。
君はやっぱり凄い。
彼女の情緒が完全に地盤沈下を起こし始めている横で、ラーメンの夢を見て爆睡する猛獣だ。
君は腹減った、と笑う。
君はラーメンが美味かった、と笑う。
君は日本は楽しかった、と笑う。
けれどその一方で、君の恋人はクリストファーくんの『それは寂しいよ』と『君が笑っている方が好きだ』と『もったいないよ』の三連射によって、人生初のグラつきを発生させているんだよ。
ハミルトン様。
君は今、別邸の書斎で、サエキの部屋から聞こえるガバガバな寝息を検閲しながら、
完璧な親友のマスクの裏で、
(……タクミ、君の知らないところで、君の恋人の足場が、パツキンの引力によって内側から静かに崩され始めているよ……)
と、本日最高に複雑な顔で沈黙しているね。
もちろん君は何も言わない。
言える立場でもない。
何故なら君自身もまた、サエキという大型犬によって人生を内側から崩された男だからだ。
クリストファーくん。
主役ではない。
悪人でもない。
ただ、そこにいて、甘い言葉を自然に言える男。
だからこそ厄介だ。
この老夫婦の『日常の完全な崩壊の始まり』。
ジョージの観測日記。
経過観察を1200%冷徹に継続させてもらうよ。(笑)
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




