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四百四十七話 「試験とは、人生を左右する重大な選抜ではなく、終わった瞬間に大型犬の知性から完全に消去される現象のことである」という話

ねんむ!(´ぅω・`)

十月二十五日、深夜。


ロンドン・ヒースロー空港の到着ゲートには、この三週間という時間を、

それぞれの重力で生き抜いた者たちの、あまりにも対照的な「知性のログ」が交錯していた。


大事件は何一つ起きていない。

陰謀もない。

事件もない。

気になる男①も、地下倉庫で黙っている。


ただ。


三週間という同じ長さの時間が、残された側と去った側のなかに、

埋めようのない決定的な「温度差」として定着していた。


*****************


文香にとって、この三週間は絶望的なまでに長かった。


最初の数日は、まだよかった。


無事に着いただろうか。

試験会場は分かっただろうか。

時差で眠れているだろうか。

そうやって心配する理由があったからだ。


拓海からは、時差のずれた雑なメッセージが届いた。


『着いた、バカ!』


『ラーメン食った!』


『親父に投げられた!』


『試験会場の場所確認した!』


『またラーメン食った!』


写真も来た。

ラーメン。

チャーハン。

道場の畳。

実家らしき廊下。

謎の炭酸飲料。


拓海の指が少しだけ写り込んだ、全く映えない写真。


文香はそれを見るたびに笑った。

笑えた。

拓海らしいと思った。


けれど。


画面を閉じるたびに、部屋は静かになった。

いつもなら、隣にいた。

声をかければ返事があった。

歩幅を合わせずに勝手に前を歩いて、それから思い出したように振り返る大きな背中があった。


それが今はない。

ただスマートフォンの画面の向こう側に、時差を挟んで存在しているだけだった。


朝、目が覚める。

メッセージを見る。

数時間前に届いた拓海の雑なログがある。


返事を送る。

すぐには返ってこない。


研究室へ行く。

課題をこなす。

クリストファーが、いつも通り親切な背景としてそこにいる。


「フミカ、彼から連絡はあったかい?」


「うん。ラーメンの写真が来た」


「それは元気そうで何よりだね」


「そうだね」


本当に、それだけだった。


クリストファーは何もしていない。

距離を詰めようとしているわけでもない。

ただ、そこにいて、普通に声をかけてくれる。

その普通さが、拓海の不在を余計にはっきりさせた。


夜。


雨が降る。

ロンドンの冷たい雨の音が、窓を細かく叩く。

文香はベッドの上でスマートフォンを見つめる。


既読はつかない。

向こうはまだ昼かもしれない。


試験かもしれない。

実家かもしれない。

道場かもしれない。

友達と会っているのかもしれない。


自分の知らない場所で、自分の知らない人たちと、拓海は普通に笑っている。


それを想像することが、思っていたより苦しかった。


『寂しい』


ただそれだけなら、まだよかった。


でも違った。

拓海は、帰っているのだ。

本来いるべき場所へ。

最初から戻る予定だった場所へ。

自分は、その場所にいない。


それだけのことだった。

それだけのことが、こんなにも重かった。


カレンダーの数字を一日ずつ消す。


十月三日。

十月四日。

十月五日。

数字は減っていく。


それなのに、三週間は果てしなく長かった。


文香にとって、この五百時間あまりは、指を折って帰国を待つだけの、

静かで、冷たくて、どこにもぶつけようのない時間だった。


*****************


それは、別邸に残されたエドワードにとっても同じだった。


学園都市別邸。


夜。

いつものリビング。


暖炉の火は入っている。

紅茶もある。

新聞もある。

書類もある。

仕事もある。

何も欠けていない。


ただ一つ。

騒がしい大型犬だけがいなかった。


いつもなら。


「おいエド、バカ! その新聞、何回読めば気が済むんだよ!」


だの。


「その顔やめろ、金持ちの陰謀顔だぞ!」


だの。


「腹減った!」


だの。


常識も遠慮も礼儀も知性も足りない声が、当然のように空間を占領していた。


その声がない。


たったそれだけで、別邸は驚くほど広かった。

エドワードはいつものソファに座り、書類へ視線を落としていた。


だが、一枚も進まない。


翡翠の瞳は、時折、対面の空いた席へ向いていた。


そこは、拓海が勝手に座る場所だった。

勝手に寝転がる場所だった。

勝手に菓子を食べ、勝手に文句を言い、勝手に笑う場所だった。


「……三週間、か」


一度だけ呟いた。

それ以上は何も言わなかった。


完璧な親友。

忠実な守護者。

ハミルトン家の魔王。

その仮面は、一ミリも崩れていない。


だが。


誰もいないソファの前で冷めていく紅茶だけが、

彼の中の時間が止まっていることを、静かに証明していた。


”拓海がいない”。


それは、いずれ訪れる未来の予行演習のようだった。


卒業。

帰国。

日本。

警察。


自分のいない場所で続いていく、拓海の人生。

それを止める権利はない。

止めるつもりもない。


だが。


受け入れられるかどうかは、また別の話だった。


三週間。

ただの三週間。


けれどエドワードにとってそれは、長すぎる空白だった。


***************


そして。


十月二十五日、深夜。

ロンドン・ヒースロー空港。


到着ゲートの前で、文香はコートの袖を握りしめていた。

隣にはエドワードがいた。


いつものように整った姿勢。

いつものように静かな横顔。

そのさらに少し離れた場所にはジョージもいる。


全員が、何でもない顔をしていた。


ただ。

全員が同じ場所を見ていた。


自動ドア。

到着ゲート。


拓海が出てくるはずの場所。


「遅いですね」


文香が呟く。


「飛行機は着いている」


エドワードが答える。


「荷物だろう」


「そうですね」


会話はそれだけで終わった。


それから数分後。

自動ドアが開いた。


「あーーーーっっっっっ!!!!」


最初に聞こえたのは声だった。

姿より先に、声が来た。

三週間前と一ミリも知性の解像度が変わっていない、圧倒的な光属性の爆音。


「文香!!!」


大きなリュックを揺らしながら、拓海が飛び出してきた。


長時間のフライトの疲れなど、どこにも見えない。


むしろ顔色はいい。

妙にツヤがある。


日本の重力で完全に充電されてきた大型犬だった。


「拓海……!」


文香は思わず一歩踏み出した。


「お帰りなさい」


「おう、ただいま!」


拓海は屈託なく笑い、文香の肩をぐいっと抱き寄せた。


「いやー、日本の警察の一次試験、数的処理がマジで頭おかしかったわ、バカ!」


「試験、大丈夫だったんですか?」


「知らん!」


「知らんって」


「終わった瞬間に全部脳内ストレージから消去したから問題ねぇ!」


「問題しかないですよ」


「大丈夫だ!多分!」


”多分”。


その一言に文香は笑った。

笑えた。

会えた。

その腕の温度がある。


声がある。

騒がしい。

近い。


それだけで、三週間分の不安が少しだけほどける気がした。


だが。


「つーかさ!」


拓海は本当に楽しそうに続けた。


「三週間なんて、マジであっという間だったな!」


文香の笑顔が、ほんの少しだけ固まる。


拓海は気付かない。

もちろん気付かない。


「実家戻ったら親父に毎日投げられるし、道場の連中と飯食いに行くし、ラーメン食うし、

試験の書類で頭痛くなるし、またラーメン食うし、気付いたら今日だぞ、バカ!」


「……そっか」


文香は小さく頷いた。


「……あっという間、だったんだね」


「おう!」


拓海は満面の笑みで頷いた。


「マジで一瞬だった!」


悪気なんて、本当に一ミリもない。

拓海はただ、楽しかったことを楽しかったと言っているだけだ。

忙しかったことを忙しかったと言っているだけだ。


帰る場所があって、会う人がいて、食べたいものがあって、目指す未来がある。

その全てが眩しいほど前向きで、拓海らしかった。


だからこそ。


文香の胸の奥に沈んでいたものが、もう一段深く落ちていく。


自分にとっては果てしなく長かった三週間。

夜ごとスマートフォンを見つめ、既読を待ち、雨音を聞きながら指を折って数えた時間。


けれど拓海にとっては。


故郷の白米と。

実家と。

道場と。

友人と。

未来への準備に満ちた。


あっという間の三週間だった。


同じ時間を生きていたはずなのに、全く違う時間を過ごしていた。


それが、苦しかった。


「どうした?」


拓海が首を傾げる。


「ううん」


文香は首を振った。


「何でもないです」


「そうか?」


「うん」


「じゃあ帰るか!」


「はい」


文香は笑った。


手を繋ぐ。

その手は温かい。

確かに隣にいる。


戻ってきてくれた。


それなのに。

胸の奥に残った冷たい温度差だけは、どうしても消えなかった。


*********************


その夜。

深夜の別邸リビング。


「ただいま、エド、バカ!!」


拓海は大きな紙袋をテーブルに置いた。


「日本の美味い煎餅、スキャンしといたから食えよ!」


エドワードはいつものソファで新聞を広げたまま、顔を上げた。


「お帰り、タクミ」


声は平坦だった。


いつも通り。

地を這うように静かで、寸分の揺らぎもない、完璧な親友の声だった。


「随分と、日本の重力で知性の燃費を無駄遣いしてきたようだが」


「帰ってきて早々それかよ!」


「事実だ」


「お前は本当に口が悪いな!」


「君ほどではない」


「俺は口が悪いんじゃねぇ! 正直なだけだ!」


「余計に悪い」


「バカちんがああああ!!」


別邸に、騒音が戻ってきた。

暖炉の音を押し退けるように。


静寂を蹴散らすように。

三週間空いていた場所へ、拓海は何事もなかったかのように戻ってきた。

エドワードは新聞を閉じる。


「願書の控えを出せ」


「は?」


「確認する」


「今?」


「今だ」


「帰ってきたばっかりだぞ!」


「だからだ」


「意味分かんねぇ!」


「黙って出せ」


「小言の法規制をしろ、バカ!」


「君の書類不備の方が規制対象だ」


「泣くぞ!」


「勝手にしろ」


【Takumi OS:完全復活】


異常なし。

別邸の日常は、何事もなかったかのように再起動された。


拓海はうるさい。

エドワードは静かに毒を吐く。

ジョージは観測する。

煎餅の袋が開く。

紅茶が淹れ直される。


三週間前と、何一つ変わらないように見える。


だが。

その外側で。


文香は自室のベッドに腰を下ろし、握った手の温度を思い出していた。


会えた。

戻ってきた。

嬉しかった。


それは本当だ。

それでも。


「あっという間だった」


その一言だけが、胸の奥に残っている。


拓海は、本当に日本へ帰っていく人なのだ。

行けば、楽しい場所がある。

待っている人がいる。

自分の知らない日常がある。


その事実を、文香はもう知らなかった頃には戻れない。


研究室には、明日もクリストファーがいる。


親切な同級生として。

ただの背景として。

けれど、そこに居続ける人として。


事件は何一つ起きていない。

喧嘩もしていない。

誰も嘘をついていない。


それなのに。


日常のタイルの隙間には、もう元には戻らない決定的な亀裂が、静かに走り始めていた。


**************


■ジョージの機密ログ(十月二十五日・深夜:大型犬の帰還と、三週間の質量差編)


十月二十五日。


深夜の別邸。


僕は、サエキが『一瞬で終わった三週間』の土産をテーブルにぶち撒ける横で、ハミルトン様が完璧な親友のマスクを一ミクロンの狂いもなく維持し、真顔でサエキの生存ログを検閲しているのを見たよ。


サエキ。


君は本当に凄い。

無自覚な笑顔一つで、全員の五百時間を踏みにじる猛獣だ。


君はあっという間だった、と笑う。

君はラーメンが美味かった、と笑う。

君は親父に投げられた、と笑う。

君は試験の数的処理が終わっていた、と笑う。


けれど。


君が日本で笑っていたその一秒一秒、君の恋人はロンドンの雨の中で

『置いていかれる未来』という長い砂時計に殺されかけていたんだよ。


ハミルトン様。


君も、サエキが戻ってきた瞬間に、別邸の全システムを音速で再起動させていたね。


もちろん顔には出していない。

出していないつもりだろう。


けれど君は、彼の願書の控えを確認するふりをしながら、

彼が本当にそこに戻ってきたことを何度も確かめていた。


君も文香さんも知っている。


サエキが日本を楽しそうに語れば語るほど、このロンドンの檻のタイムリミットは確実に削られていく。


背景には輪郭が生まれ始め、地下倉庫には管理責任者がついた。

実に面倒だね。


主役が動き出す前の、このじっくりと満ちていく『時間の重さのズレ』。


ジョージの観測日記。

この老夫婦の切ないバカ日常、経過観察を1200%冷徹に継続させてもらうよ。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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