第五話 「強さとは、見せびらかすものではなく、自然と滲むものである」という話
”やばい”は万能ですよね(`・ω・´)
放課後。
夕暮れが近づいたクレストフィールド学院は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
寮の裏手は人通りも少ない。
授業を終えた生徒たちは部活動へ向かい、あるいは街へ出掛け、それぞれの時間を過ごしている。
だからこそ、この場所は人目につきにくかった。
「やめろって言ってんだろ」
低い声が聞こえた。
エドワードは足を止める。
少し先。
数人の上級生と、一人の下級生。
誰が見ても分かる構図だった。
肩を掴まれ、逃げ場はない。
学院は規律に厳しい。
表立った揉め事は滅多に起きない。
だからこそ。
人目につかない場所で起きる問題は、誰にも気づかれない。
エドワードも、しばらく黙って様子を見ていた。
助けるべきか。
だが、余計な騒ぎを起こすこともできない。
そう考えた、その時だった。
「おい」
場違いな声が割って入る。
全員が一斉に振り向いた。
ポケットに手を突っ込んだまま歩いてくる黒髪の少年。
佐伯拓海だった。
「何やってんの」
あまりにも軽い口調だった。
さっきまで張り詰めていた空気が、一瞬だけ崩れる。
上級生の一人が舌打ちした。
「関係ないだろ」
「あるだろ」
拓海は即答した。
「目の前でやってんだから」
そう言って一歩近づく。
近い。
近すぎる。
「どけ」
「やだね」
またその返事だった。
「邪魔だ」
「そっちがな」
周囲の空気が変わる。
今度は、別の意味で。
上級生が一歩踏み出した。
体格では明らかに勝っている。
普通なら引く。
少なくとも、様子を見る。
だが拓海は動かなかった。
「いいから離せよ」
ただ、それだけを言う。
次の瞬間。
上級生の腕が伸びる。
掴もうとした。
乾いた音が、小さく響く。
それだけだった。
気づけば腕は払われ、上級生の身体が大きくよろめいていた。
一歩。
二歩。
体勢を崩して後ずさる。
拓海はほとんど動いていない。
手首を軽く払った。
本当に、それだけだった。
「……は?」
上級生が固まる。
周囲も誰一人動けない。
何が起きたのか、理解できなかった。
拓海だけが、つまらなそうに言う。
「危ないだろ」
「……何した」
「別に?」
興味なさそうに肩をすくめる。
「避けただけ」
そんなはずはない。
だが説明する気もないらしい。
上級生たちは顔を見合わせる。
続けるか。
引くか。
ほんの数秒の沈黙。
「……チッ」
舌打ちだけを残し、
「行くぞ」
そう言って立ち去っていった。
残された下級生は呆然としている。
「大丈夫か」
拓海が聞く。
「……はい」
「ならいい」
それだけだった。
礼を待つこともなく、そのまま歩き出す。
まるで、本当に大したことではなかったかのように。
エドワードは、その背中を見つめていた。
怒っていたわけではない。
英雄ぶったわけでもない。
ただ。
危ないと思ったから止めた。
それだけだった。
「タクミ」
声を掛ける。
拓海が振り返った。
「ああ。またお前か」
さっきまでの空気は、もうどこにもない。
「今のは何だ」
「何が?」
「技だ」
「別に」
興味なさそうに答える。
「ちょっと手を出しただけ」
「違う」
エドワードは即座に言った。
「あれは訓練された動きだった」
拓海は少しだけ目を細める。
そして小さく笑った。
「……剣道やってたからかな」
ぼそりと呟く。
「じいさんに叩き込まれた」
それ以上は何も言わない。
それで十分だと言わんばかりに。
「なるほど」
エドワードは静かに頷いた。
また一つ。
目の前の少年について知ることができた。
「で?」
拓海が聞く。
「なんか用か」
「ある」
即答だった。
「日本語だ」
「戻るの早いな」
思わず笑う。
「さっき言っていた」
エドワードは真剣な顔で続ける。
「『危ないだろ』だ」
「おう」
「こういう感情を強く表す言葉はあるか」
「またそれか」
拓海は少し考え、
にやりと笑った。
「あるぞ」
嫌な予感しかしない。
「『ヤベェ』」
「ヤベェ」
「強く言いたい時に使う」
「なるほど」
エドワードは真面目に頷く。
そして、さっき上級生たちが去っていった方を見ながら言った。
「……ヤベェな」
「やめろ」
拓海は即座に突っ込む。
「適切ではないか」
「雑すぎる」
「違うのか」
「違う」
エドワードは腕を組んだ。
「では、『ヤバイ』との違いは」
「細かいな」
拓海は苦笑する。
「『ヤバイ』の方が普通」
「普通」
「『ヤベェ』はもっと雑」
「雑」
「あと勢い」
「勢い」
真顔で復唱するな。
「感覚だよ」
「非論理的だ」
「日本語だからな」
拓海は肩をすくめる。
「そもそも『ヤバイ』は万能なんだよ」
「万能」
「良い意味でも悪い意味でも使える」
エドワードは真剣に考え込んだ。
「つまり、状況によって意味が変化する言葉か」
「そういうこと」
「便利だな」
「だろ?」
少しの沈黙。
やがてエドワードは姿勢を正した。
「では」
拓海は嫌な予感しかしなかった。
「先ほどの件は」
一拍。
「……ヤバイな」
「それは合ってる」
「本当か」
「半分くらい」
「半分か」
「だから難しいんだよ」
エドワードは小さく息を吐く。
「……日本語は難しいな」
「だろ?」
「だが」
ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「面白い」
その表情を見て、
拓海もつられて笑う。
「便利すぎるんだよ、『ヤバイ』って」
「だから万能なのか」
「だから雑にもなる」
「なるほど」
エドワードは静かに頷いた。
夕暮れの風が二人の間を通り抜ける。
少し前まで誰かを助けていた少年は、今は真面目な英国貴族相手に日本語の講義をしている。
その切り替えが、あまりにも自然だった。
エドワードは思う。
日本語は、やはり難しい。
だが。
目の前にいる佐伯拓海という少年は、それ以上によく分からない。
そして、それが少しだけ面白かった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




