第四話 「日本語とは、時として国際問題の一歩手前まで行く言語である」という話
コメディの塩梅がいまいちわからない
クレストフィールド学院、応接室。
学院の中でも、この部屋だけは空気が違った。
磨き上げられた机。
重厚な革張りの椅子。
壁には歴代校長の肖像画が並び、窓から差し込む昼の光だけが静かに室内を照らしている。
来賓を迎えるための部屋らしく、いつも以上に静まり返っていた。
そんな格式ある空間の片隅で。
「……なんで俺ここにいんの」
場違いな声が、小さく漏れた。
隣に立つエドワードは当然のような顔で答える。
「日本語だ」
「だからって、なんで同席なんだよ」
「必要だからだ」
「いや、その説明雑すぎるだろ」
拓海は小さくため息をついた。
どうやら周囲は、自分を日本語の通訳か何かだと思っているらしい。
勝手に期待されるのが、一番困る。
「では」
校長が穏やかに口を開いた。
「ハミルトン」
「はい」
エドワードが一歩前へ出る。
背筋は真っ直ぐ。
制服の乱れ一つない。
年齢こそ十四歳だが、その立ち姿には不思議な威圧感があった。
(……日本語で挨拶する気か?)
拓海の嫌な予感が膨らんでいく。
昨日は「マジか」。
今日は何を言うつもりだ。
エドワードは日本人の来賓へ向き直り、静かに一礼した。
そして。
「――お招きいただき、あざーっす」
…………。
時間が止まった。
本当に止まった。
誰も動かない。
校長も。
来賓も。
給仕の先生までもが固まっている。
(終わった)
拓海は静かに目を閉じた。
英国生活、終了のお知らせである。
やがて校長がゆっくりと微笑む。
「……ほう」
やめてくれ。
その笑顔は嫌な予感しかしない。
「それが最近の日本の挨拶ですか」
違う。
違う違う違う。
理解しないでほしい。
だが。
「はい」
エドワードは一切迷わず頷いた。
「親しい間柄において、深い敬意を示す表現だと教わりました」
室内の視線が一斉に動く。
全員が、拓海を見る。
拓海はぶんぶんと首を振る。
(やめろ。見ないでください)
「なるほど」
来賓は感心したように頷いた。
「距離の近さを感じる、興味深い言葉ですね」
違う。
全部違う。
「はい」
エドワードは堂々と続ける。
「非常に合理的です」
合理性で語るな。
拓海は俯いた。
もう顔を上げられない。
(あとで絶対文句言う)
それでも。
会談は、不思議なくらい何事もなく進んでいった。
どうして成立したのかは、最後まで誰にも分からなかった。
*************
数分後。
寮へ戻る廊下。
「ハミルトン」
校長に呼び止められる。
「はい」
エドワードは落ち着いた様子で振り返った。
来賓も一緒だ。
「ああ、終わったな」
少し離れた場所で様子を見ていた拓海は、小さく呟く。
「先ほどの挨拶についてだ」
「はい」
「君は『あざーっす』と言ったね」
「はい」
迷いがない。
「意味をもう一度聞かせてくれるかな」
「親しい間柄において、深い敬意を示す言葉です」
即答だった。
一片の迷いもない。
来賓が小さく咳払いをする。
「……確かに、そういう場面もあります」
"も"が重い。
「ただ、非常に砕けた表現です。正式な場では通常使いません」
その言葉に。
エドワードの眉が、わずかに動いた。
「……そうですか」
初めて戸惑ったような表情だった。
来賓は穏やかな口調のまま尋ねる。
「誰に教わりましたか?」
「サエキ・タクミです」
即答だった。
売った。
*************
「サエキ」
「……はい」
逃げられなかった。
振り返ると、校長と来賓、そしてエドワードが並んでいる。
完全包囲である。
「少し説明してもらえるかな」
拓海は諦めて歩き出した。
「……何でしょう」
エドワードが真面目な顔で言う。
「『あざーっす』の件だ」
「お前な」
拓海は小声で睨む。
「売るなよ」
「事実を述べただけだ」
悪びれる様子は一切ない。
「お前が教えたのだろう?」
「まあ、そうだけどさぁ……」
来賓が苦笑しながら尋ねる。
「どういう意図で教えたのですか?」
逃げ場はなかった。
拓海は観念して肩を落とす。
「……面白いかなと思って」
沈黙。
終わった。
そう思った次の瞬間。
「……ふっ」
来賓が小さく笑った。
「若者らしい理由ですね」
助かった。
……たぶん。
校長は一つため息をつく。
「ハミルトン」
「はい」
「言葉には、使う場を選ぶものもある」
「理解しました」
素直だった。
「今後は気をつけます」
話は、それで終わった。
*************
廊下を並んで歩く。
しばらく沈黙が続いた。
「お前な」
拓海が口を開く。
「何だ」
「何だじゃねぇよ」
思わず振り返る。
「『あざーっす』って何だ」
エドワードは少し考えた。
「感謝の言葉だろう」
「そこまではいい」
「親しい相手に使う」
「そこもいい」
「では問題ない」
「大問題だわ!」
思わず声が大きくなる。
エドワードは少しだけ首を傾げた。
「……難しいな」
「当たり前だ」
「だが」
少しだけ考えてから続ける。
「通じたぞ」
「それが一番まずいんだよ……」
拓海は頭を抱えた。
エドワードはどこか満足そうに頷く。
「日本語は面白い」
「だからって変なのばっか覚えるな」
「困る」
即答だった。
「必要だ」
当然のように言われる。
拓海はしばらく黙っていた。
それから小さく息を吐き、苦笑する。
「……次は、ちゃんとした日本語教える」
「期待している」
迷いのない返事だった。
(……やべぇの育ててるな、これ)
そう思いながらも。
拓海は少しだけ笑っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




