第五話 「ヤバイ」は万能だと教えた話
”やばい”は万能ですよね(`・ω・´)
放課後、寮の裏手。
人目につきにくい場所。
「やめろって言ってんだろ」
低い声。
数人の上級生と、ひとりの下級生。
典型的な構図。
エドワードは、少し離れた場所で立ち止まった。
見ているだけだ。
関わるべきではない。
それが、この学校の暗黙の了解。
「聞いてんのか?」
肩を掴まれて、逃げ場はない。
その時。
「おい」
場違いな声が割り込んだ。
全員が振り向く。
佐伯拓海。
ポケットに手を突っ込んだまま、歩いてくる。
「何やってんの」
軽い口調。
緊張感が一気に崩れる。
上級生の一人が舌打ちする。
「関係ないだろ」
「あるだろ」
即答。
「目の前でやってんだから」
一歩、近づく。
距離が近い。
近すぎる。
「どけ」
「やだね」
またそれか。
「邪魔だ」
「そっちがな」
空気が変わる。
さっきまでとは別の意味で。
「……お前」
上級生が一歩出る。
体格は上、しかも年上。
普通なら、引く場面だ。
だが、拓海は動かない。
「いいから離せよ」
それだけ言う。
その瞬間。
上級生の腕が動く。
掴みにいく。
――次の瞬間。
音がした。
乾いた、短い音。
気づけば、
上級生の腕は払われていた。
体勢が崩れる。
一歩。
二歩。
よろめく。
拓海は、その場からほとんど動いていない。
ただ、手首を軽く払っただけ。
それだけで。
「……は?」
上級生が固まる。
周囲も、動けない。
今の一瞬で、何が起きたのか理解できていない。
拓海は、つまらなそうに言う。
「危ないだろ」
「……何した」
「別に?」
興味なさそうに肩をすくめる。
「ちょっと避けただけ」
嘘だ。明らかに違う。
だが、説明する気はない。
空気が変わる。
完全に。
上級生たちは顔を見合わせる。
引くか、続けるか。
一瞬の判断。
そして。
「……チッ」
舌打ち。
「行くぞ」
それだけ言って、去っていく。
あっさりと。
残された下級生は、呆然としている。
「大丈夫か」
拓海が言う。
「……はい」
「ならいいな」
それで終わり。
興味を失ったように、背を向ける。
エドワードは、それを見ていた。
最初から、最後まで。
無駄がない。
感情もない。
ただ、当然のようにやっていた。
「タクミ」
呼ぶ。
拓海が振り返る。
「ああ、またお前か」
いつもの調子。
さっきの空気はどこにもない。
「今のは何だ」
「何が?」
「技だ」
「別に?」
興味なさそうに言う。
「ちょっと手出しただけ」
「違う」
即答。
エドの目は真剣だった。
「無駄がなかった」
一拍。
拓海は少しだけ目を細めて、
「……剣道、やってたからな」
ぼそっと言う。
「じいさんに叩き込まれた」
それだけ。
それ以上は言わない。
「なるほど」
エドは頷く。
納得したように。
そして。
少しだけ見る目が変わる。
ほんのわずかに。
「で?」
拓海が言う。
「なんか用か」
「ある」
即答。
「日本語だ」
戻るの早いな。
「さっきの」
エドは真面目に言う。
「“危ないだろ”」
「おう」
「こういう感情を強く表す言葉はあるか」
またそれか。
拓海は少し考えて、にやりと笑う。
「あるぞ」
嫌な予感しかしない。
「“やべぇ”」
「ヤベェ」
「強い時に使う」
「なるほど」
エドは頷く。
そして、さっきの方向を見て、
「……ヤベェな」
「やめろ」
即ツッコミ。
空気ぶち壊し。
エドは首を傾げる。
「適切ではないか」
「全部ズレてる」
拓海はため息をつく。
だが、エドは納得していない顔だ。
「タクミ」
「ん?」
「確認したい」
またか。
「“ヤバイ”と“ヤベェ”は同義か」
「……まあ似てるけど違う」
「違うのか」
「“ヤバイ”は普通」
「普通」
「“ヤベェ”はちょっと強い」
「強い」
「あと雑」
「雑…」
エドは頷く。
「では、“ヤベェ”の方が上位か」
「ちょっと違う」
即否定。
「上とかじゃねぇ」
「では何が違う」
「ノリ?」
「ノリ」
真顔で繰り返すな。
「感覚だよ」
「非論理的だな」
「日本語だぞ」
拓海は肩をすくめる。
「そもそもな」
少しだけ笑う。
「“ヤバイ”は万能日本語だぞ」
エドの目がわずかに細くなる。
「万能」
「いい時も悪い時も使える」
「両義的か」
「そう。大体何でも通じる」
「曖昧だな」
「便利だろ」
エドは考える。
真剣に。
「つまり」
ゆっくりと言う。
「状況に応じて意味が変化する言葉か」
「そういうこと」
(まあ半分くらい嘘だけどな)
「では」
姿勢を正す。
「春はアケボノ」
一拍。
「……ヤベェな」
「おいやめろ」
即ツッコミ。
空気ぶち壊し。
エドは首を傾げる。
「適切ではないのか」
「全部ズレてる」
拓海はため息をつく。
だが、エドは納得していない顔だ。
(まあ、雑に使ってるだけだけどな)
「では」
エドは姿勢を正す。
「先ほどの件は」
一拍。
「ヤバイな」
「やめろ」
即ツッコミ。
「なぜだ」
「全部それでまとめるな」
「万能なのだろう」
「そうだけど」
「私は今、強い関心を抱いている」
「それはわかる」
「だからヤバイ」
「雑すぎる」
エドは少し考えて、
「では“ヤベェ”か」
「やめろって」
「強いのだろう」
「そういう問題じゃねぇよ」
沈黙。
エドはゆっくりと息を吐いた。
「……難しいな」
「だろ?」
「だが」
ほんの少しだけ、
口元が緩む。
「面白い」
その顔に、
拓海は少しだけ笑う。
「便利すぎる言葉なんだよ、“ヤバイ”は」
ぼそっと言う。
「だから雑にもなる」
「なるほど」
エドは頷く。
「では、使いどころを誤れば問題になる」
「そういうこと」
一拍。
エドは静かに言った。
「先ほどは、誤った使い方だったな」
「そうだな」
「今後は気をつける」
「ぜひそうしてくれ」
少しの沈黙。
それでも。
「……だが」
エドが続ける。
「やはり便利だ」
やめろ。
「便利だけどな」
「“ヤバイ”」
ぼそっと繰り返す。
その言い方が妙に真面目で、
拓海は思わず吹き出した。
「お前な」
「何だ」
「その顔で言うな」
「なぜだ」
「全部だよ」
夕暮れの静かな校舎の裏。
また一つ、
どうでもいい言葉が増えた。
でも。
それを覚えているのは、
たぶん、二人だけだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




