第四百四十五話 「予定表とは、ただの日付の羅列ではなく、隣にいる大型犬の「楽しそうな未来」と、自分の「置いていかれる現実」の温度差を、冷徹な数字の暴力として突きつけられる現象のことである」という話
拓海君は鈍いから・・・
十月の上旬。
学園都市の並木道が、いよいよ本格的な秋の黄金色に染まり始めた頃。
その「日常のひび割れ」は、一通のメールの受信通知と、一枚の電子チケットの画面から、
あまりにも事務的に、そして残酷に開始された。
事件は何一つ起きていない。
喧嘩も、浮気も、悪意のある陰謀もない。
ただ。
日付という名の無機質な数字が、文香の胃をじわじわと正確に抉り始めていた。
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学食のいつものテラス席。
拓海はスマートフォンを文香の目の前に突き出し、本日最高の、
なんの曇りもない光属性の笑顔を輝かせた。
「おい文香、見ろよ、バカ!!」
「はい?」
「日本への一時帰国の航空券、ハミルトンの法で完璧に確保できたぞ!!」
画面に表示された、確定済みのフライトログ。
【出発:十月二日 ロンドン・ヒースロー発】
【帰国:十月二十五日 東京・羽田発】
文香は、その数字を見つめた。
十月二日。
十月二十五日。
ただの日付。
ただの予定。
けれど。
旅行先で聞いた、
『来年は俺、日本だしな』
というまだ輪郭のぼやけた未来よりも、その数字はずっと冷たく、ずっと残酷だった。
来年ではない。
いつかでもない。
十月二日。
十月二十五日。
未来が、予定表という形で目の前に実体化してしまったのだ。
「……三週間、なんだね」
「おう、三週間だ、バカ!」
拓海は嬉しそうに頷いた。
「一次試験終わったら、まずラーメンだな」
「ラーメンなんだ」
「ラーメンだ」
真顔だった。
「そのあと道場行って、昔の連中集めて飲みに行って、親父に説教されて、たぶん一本背負いされる」
「予定が全部入ってるんですね」
「おう!」
拓海は迷いなく頷く。
「忙しくなるぞ、バカちんが!」
その顔は、本当に楽しそうだった。
実家。
道場。
昔の友人。
ラーメン。
警察官採用試験。
拓海の語る未来は、そのすべてが光に満ちていて、前向きで、
彼を待っている日本の重力へと真っ直ぐに向かっている。
文香は、自分のために用意された冷たい紅茶のストローを見つめた。
(……拓海は、日本に帰るのが、そんなに楽しみなんだ……)
そこが、一番深く文香の心に効いていた。
拓海は何も悪くない。
留学を終えて母国へ帰り、自らの夢を叶える。
それは当然のことだ。
けれど。
自分にとっては胸が張り裂けそうなほどに寂しい三週間が、
拓海にとっては故郷の白米と未来に胸を躍らせる、楽しみな三週間なのだ。
その圧倒的な温度差が、文香の胸の奥に静かに沈んでいく。
置いていかれる側だけが味わう、無自覚な光属性への静かな絶望だった。
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その後、文香は研究室の静寂のなかにいた。
デスクの上に広げられた専門書の余白に、どうしても「十月二日」という数字が
ノイズとして明滅してしまう。
「……フミカ?」
隣の席から、金髪に青い瞳の同級生――クリストファーが声をかけてきた。
「顔色が良くないね。課題、難しかった?」
「あ、ううん。大丈夫」
「本当に?」
クリストファーは、ただ心配しているだけだった。
ただそこにいる、親切な背景の一片に過ぎなかった。
「ちょっと、彼が日本の警察の試験で一ヶ月近く一時帰国するから、その予定を見てただけ」
「日本か」
クリストファーは少し驚いたように目を瞬いた。
「イギリスからだと、かなり遠いんだよね?」
「……遠いよ。飛行機で半日以上かかるし、時差もあるし」
「半日以上か……」
クリストファーは肩をすくめた。
「僕、そこまで遠くへ行ったことがないから、あまり想像できないな」
「そうだね」
「会うのも大変そうだ」
「……うん」
文香は、それ以上何も言わずにノートを閉じた。
クリストファーが近づいてきているのではない。
ただ、彼という「ここに居続けるピース」の何気ない一言が、
海の向こうへ遠ざかろうとしている拓海の背中を、より一層冷徹に際立たせていく。
喧嘩も、大事件もない。
ただ。
カレンダーに書き込まれた出発日という名のデジタルログが、
幸せの絶頂にいたはずの文香の胃を、じわじわと、確実に痛めつけ続けている十月の午後だった。
■ジョージの機密ログ(十月上旬・別邸リビング:航空券発券と、魔王の1200%冷徹な最適化編)
十月上旬。
秋の別邸。
僕は、サエキが『十月二日発の電子チケット』を嬉しそうに文香さんへ自慢している横で、
ハミルトン様が完璧な親友のマスクを被ったまま、その空輸ルートと決済システムを
音速で最適化してやった後の、本日最高の、世界で一番複雑な顔を観測したよ。
サエキ。
君は本当に、自分が遠ざかるだけで周囲の情緒をまとめて爆死させる猛獣だね。
君はラーメン食う、と笑う。
君は道場に行く、と笑う。
君は日本の友人に会う、と笑う。
だが君が日本を楽しみにする一秒一秒、君の恋人は『置いていかれる寂しさ』で胃壁を削り、
君の相棒は『君の帰り便のログ』を真顔で握り締めながら、
自らの醜い独占欲を墓場まで持っていくための、最も冷徹で哀しい数的処理をこなしているんだよ。
ハミルトン様。
君は今、サエキが日本の友人へ連絡する、と騒いでいるのを新聞の裏で聞きながら、
(……タクミ、君が日本へ行くその三週間、君のいないこの別邸で、
私は一体どんな顔をして過ごせばいいのだろうな)
と、静かに全防衛システムの出力を固定しているね。
クリストファーくんはまだ背景で呟いているだけ。
気になる男①も、まだ遠い未来の地下倉庫に保管中。
だから今は。
このじっくりと満ちていく『未来の引き剥がし』だけを観測しよう。
ジョージの観測日記。
経過観察を1200%冷徹に、そして最高に切ないこの「タイムリミット日常」
として継続させてもらうよ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




