第四百四十四話 「帰国準備とは、単なる移動の手続きではなく、隣にいる大型犬の「未来の質量」が、いよいよロンドンの重力を引き千切って日本の座標へと収束していく現象のことである」という話
やっとこさキャンパス編の終わりが見えてきた気がする
夏休みが終わり、学園都市は本格的な秋の気配、
そして四年生たちの「最後の学期」の空気に包まれていた。
事件は何一つ起きていない。
陰謀の影も、人身売買の足音も、この時点ではまだ一ミリも表面化していなかった。
ただ。
佐伯拓海の「日常のログ」だけが、少しずつ、けれど決定的な変化を見せ始めていた。
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学食のテラス席。
秋の風が吹き抜ける昼下がり。
拓海は山盛りのポテトにマヨネーズを追加しながら、スマートフォンを睨みつけていた。
「あー」
数秒後。
「文香」
「はい?」
「俺、来月ちょっと日本帰るわ」
文香は顔を上げた。
「え?」
拓海は当然のように続ける。
「試験」
「ああ……」
「面接とかもあるしな」
そう言ってスマートフォンの画面を見せてくる。
そこには日本の警察採用試験の日程が表示されていた。
「二週間……いや、三週間くらいかな」
「そんなに?」
「多分」
拓海は頷いた。
「一次終わっても面接とかあるし」
「そっか」
「親父にも顔出さねぇと怒られるしな」
「ふふっ」
「笑い事じゃねぇぞ」
「そうなんですか?」
「説教が長い」
「それは大変ですね」
「マジでな」
拓海は本気で嫌そうな顔をした。
だがその顔はどこか楽しそうでもあった。
日本。
実家。
道場。
昔からの友人。
拓海が何気なく口にするその単語一つ一つが、文香には妙に鮮明に聞こえた。
「あ、そうだ」
拓海は再びスマートフォンを見た。
「願書も出さねぇとな」
「もうそんな時期なんだね」
「おう」
拓海は頷く。
「忙しくなるぞー」
その笑顔はいつも通りだった。
何も変わらない。
けれど。
文香だけは知っていた。
変わり始めているのだ。
旅行先で聞いた、
『でも来年は俺、日本だしな』
という何気ない一言。
あの時はまだ遠かった未来が、今は少しずつ現実の形を取り始めている。
願書。
試験。
面接。
一時帰国。
実家。
警察学校。
その全てが、日本へ続いている。
(本当に帰るんだ……)
胸の奥に沈んだ違和感は、もう消えそうになかった。
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研究室。
文香は机に向かい、参考文献の山と格闘していた。
「やあ、フミカ」
聞き慣れた声。
顔を上げると、クリストファーが立っていた。
「今日の課題なんだけど、少し相談してもいいかな?」
「あ、うん」
「助かるよ」
クリストファーは笑った。
相変わらず感じが良い。
相変わらず親切だ。
そして。
相変わらず親しげに笑う。
二人はしばらく課題について話し合った。
研究内容。
統計。
将来の進路。
ごく普通の大学生の会話。
それだけだった。
本当にそれだけだった。
けれど。
クリストファーが自然に語る『卒業後もロンドンにいる未来』と、
拓海が当たり前のように準備している『日本へ帰る未来』。
その対比だけが、文香の心に静かな境界線を描いていた。
ただ。
その背景が少しずつ輪郭を持ち始めていることだけは、確かだった。
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十月上旬。
別邸のリビング。
僕は、ソファに寝転がりながら日本の警察採用試験の願書を記入しているサエキと、
その隣で完璧な親友の顔をしながら書類一式を無言で検閲しているハミルトン様を観測していた。
「サイン、ここでいいのか?」
「違う」
「ここ?」
「違う」
「めんどくせぇ」
「黙って書け」
実に平和だ。
実に平和な光景だ。
サエキ。
君は本当に凄い。
願書を書いているだけなのに、周囲の人間の情緒だけを破壊していく。
ある意味で才能だよ。
君は一回日本へ帰るわ、と笑っている。
だがその一方で。
恋人は『置いていかれる未来』を見始めている。
親友は『帰る未来を止められない』と知ったまま、その準備を手伝っている。
そして本人だけが何も気付いていない。
【Takumi OS:異常なし】
素晴らしい。
実に通常運転だ。
ハミルトン様。
君は今、願書の不備を修正しながら、本日最高に複雑な顔をしているね。
もっとも。
サエキはその顔の意味を一生理解しないだろうけれど。
クリストファーくんはまだ背景。
気になる男①もまだ未来。
だから今は。
この穏やかな日常が、少しずつ終わりへ向かっている過程だけを観測するとしよう。
経過観察を継続する。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




