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第四百四十三話 「未来とは、自らの進路を考えた時、初めて隣にいる大型犬の帰り道が自分とは違う場所に続いていると気づく現象のことである」という話

拓海君は鈍いですから。

夏休みに入って数日後。

昼下がりの学園都市。

研究室帰りの文香は、図書館前のベンチに腰を下ろしていた。


暑い。

イギリスの夏は日本ほどではないが、それでも日差しは十分に夏だった。


ペットボトルの水を飲みながらぼんやりしていると、


「文香」


聞き慣れた声がした。


顔を上げる。

拓海だった。

相変わらず大きい。

そして相変わらず暑そうだった。


「何してるんですか」


「死んでる」


「生きてますよね」


「まだな」


「まだって」


文香は思わず笑った。


拓海は隣へ座る。


そして数秒後。


「どっか行くか」


「え?」


あまりにも自然だった。

本当に自然だった。


まるで、


『昼飯食うか』


くらいの気軽さで。


「どこにですか?」


「知らん」


「知らないんですか」


「今決める」


「計画性って知ってます?」


「名前だけ」


「最低ですね」


「よく言われる」


全然反省していなかった。

文香は呆れながらも少し嬉しかった。


最近の拓海は忙しい。


卒業論文。

進路。

刑事採用試験。

来年には四年生になる。


それなのにこうして時間を作ってくれる。

その事実が少しだけ嬉しかった。


「で、どこ行くんですか」


「スコットランド」


「遠いですね」


「じゃあウェールズ」


「雑ですね」


「じゃあ文香決めろ」


「丸投げしましたね」


「した」


「堂々と言わないでください」


結局その後三十分ほどかけて、二人は旅行先を決めた。


その三十分のうち二十五分くらいは、どこのご飯が美味しそうかという話だった。

大型犬の知性は今日も通常運転だった。


***********


旅行は楽しかった。


本当に。


景色も綺麗だった。

食事も美味しかった。

歩いて。

笑って。

写真を撮って。

くだらない話をして。


気付けば時間が過ぎていた。


文香は何度も思った。


来てよかった。

誘ってもらえてよかった。


大学に入ってから色々な場所へ行った。

色々な人と出会った。


けれど。

こうして拓海と並んで歩く時間は、いつの間にか特別になっていた。


最終日の夕方。


二人は海沿いの遊歩道を歩いていた。

空は茜色に染まり始めている。

潮風が心地良かった。


「楽しかったね」


文香が言う。


拓海は頷いた。


「おう」


「来て良かった」


「だな」


「また来たいね」


文香は何気なく言った。

深い意味はなかった。


ただ。

本当に楽しかったから。

また来られたらいいなと思っただけだった。


拓海も頷く。


「あー、いいな」


その言葉に文香は少しだけ笑った。


だが。


次の言葉はあまりにも自然だった。


「でも来年は俺、日本だしな」


文香は瞬きをした。


「え?」


「いや、来年の今頃って多分警察学校とかじゃね?」


拓海は海を見ながら言う。


「刑事になるなら色々あるだろうし」


「ああ……」


そうだった。


知っている。


拓海は卒業したら帰国する。

警察官になる。


最初から聞いていた。

何度も聞いていた。


「そういえばそうだね」


文香は笑った。


拓海も頷いた。


「おう」


会話はそこで終わった。


本当にそれだけだった。


拓海は何も気付かない。

悪気もない。

隠してもいない。


彼にとっては”最初から決まっている未来の話”をしただけだった。


海風が吹く。

遠くでカモメが鳴いていた。


文香は隣を歩く拓海を見る。


来年。

この人は日本にいる。

自分はまだ大学生だ。


再来年。

自分は卒業する。


その頃には就職先も決めているだろう。


イギリスで働きたい。

そう思っている。


その時。


拓海は日本。

自分はイギリス。


今まで考えたこともなかった未来が、急に輪郭を持った気がした。


(あれ……?)


胸の奥に生まれた違和感は小さい。


けれど。

思った以上に消えなかった。


「どうした?」


拓海が首を傾げる。


「ううん」


文香は首を振った。


「何でもないです」


「そうか」


拓海は納得した。

本当に納得した。

何一つ疑うことなく。


文香は思わず苦笑する。


隣の大型犬は今日も平常運転だった。


それなのに。

胸の奥だけが、少しだけ落ち着かなかった。


***********


夏休みが終わり、学園都市には新学期の空気が戻ってきていた。

文香は旅行のあとも、時々あの日の会話を思い出していた。


『でも来年は俺、日本だしな』


ただそれだけの一言。


新情報でも何でもない。

最初から知っていた未来。


それなのに。


時間が経つほど、その言葉だけが妙に現実味を帯びて胸に残った。


そんな状態のまま迎えた研究室。


そこで出会ったのが、金髪に青い瞳の青年――クリストファーだった。


悪気もなければ陰謀もない。


ただ優秀で。

ただ親切で。

ただ感じの良い同級生。


それだけだった。

だからこそ厄介だった。


帰り道。


研究室の説明を終えたクリストファーは何気なく言った。


「僕は卒業したらロンドンかな」


文香は足を止める。


「ロンドン?」


「うん。このままこっちで働きたいんだ」


自然な言葉だった。


拓海が帰国を語る時と同じくらい自然な言葉だった。


「せっかくこの環境にいるんだしね」


「……私も」


「ん?」


「私も、こっちで働きたいと思ってる」


クリストファーは笑った。


「じゃあ同じだ」


本当にただそれだけだった。


だが。


その瞬間。


旅行先の海風と、あの日の会話が頭を過った。


来年。

拓海は日本。


再来年。

自分は卒業。


そして。

自分はイギリス。


クリストファーと話しているだけなのに、なぜか拓海との未来が比較されてしまう。


比較したくなどないのに。

比較する理由などないのに。


未来の座標だけが、残酷なほど違っていた。


***********


夕暮れのキャンパス。


遠くではラグビー部の声が響いている。


「あー、クソ。四年の勉強マジで頭の燃費悪ぃな」


「まだ始まったばかりですよ」


「もう疲れた」


「早いです」


「帰りたい」


「どこへですか」


「飯」


「帰る場所じゃないですよね?」


いつもの会話。

いつもの帰り道。

いつもの大型犬。


「そういや文香」


「はい?」


「冬休みもどっか行こうな」


拓海は笑った。


「今度は城な」


「まだ言ってるんですか」


「城はロマンだろ」


「知ってます」


文香は笑った。

ちゃんと笑えた。


だけど。


胸の奥では。


【Takumi OS:異常なし】


その表示の隣で。


現実システム:異常しかない】


というエラーコードが、静かに明滅し始めていた。


■ジョージの機密ログ(夏休み終了・未来の比較開始編)


僕は見たよ。


文香さんが初めて『サエキ拓海という日本行きの片道切符』を現実として認識した瞬間を。


サエキ。


君は本当に凄い。


何も隠していない。

何も騙していない。

何も間違っていない。


それなのに空気だけを不穏にする。


才能かな?


そしてクリストファーくん。


彼は何も悪くない。

本当に何も悪くない。

ただ、自分の未来を語っただけだ。


その未来がたまたま文香さんと同じ方向を向いていただけ。


だが時に、人間関係を壊すのは悪意ではない。


善意と現実だ。


ハミルトン様。


君は今頃、別邸で書類でも読んでいるだろうけど。


君の親友は今日も元気だよ。


そして。


君の親友が選んだ彼女は、少しずつ『君のいない未来』を見始めている。


実に興味深い。

経過観察を継続しよう。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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