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第四百四十一話 「旅行とは、見知らぬ土地へ思い出を作りに行く儀式ではなく、日常から離れた静寂のなかで、隣にいる大型犬の「帰り道の座標」を初めて突きつけられる現象のことである」という話

うん。まぁ。そうだね。としか・・・

四月。

学園都市の短い春休みを利用して、文香と拓海は湖水地方を訪れていた。


ロンドンから列車で数時間。

ピーターラビットの故郷として知られるその土地は、なだらかな丘陵と、

鏡のような湖水と、春先の柔らかな光に包まれていた。


駅を降りた瞬間、空気の匂いが違った。


ロンドンの石と煙の匂いではない。

湿った土と草と、水辺の冷たさが混じった匂い。


文香は思わず深呼吸をした。


「すごい……」


ぽつりと零れる。

隣で拓海が得意げに笑った。


「だろ?」


「拓海さんが作った景色じゃないよね?」


「細けぇな、バカ」


「細かくないと思う」


二人で笑う。


それだけで、文香は胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。


旅行は、最初から拓海らしかった。

宿と切符だけは押さえてある。

それ以外は、ほぼ何も決まっていない。


昼食の場所も。

遊覧船の時間も。

翌日の予定も。

全部、現地に着いてから考えるらしい。


「ねぇ、拓海さん」


湖畔の遊歩道を歩きながら、文香は呆れ半分で尋ねた。


「本当に宿と切符以外、何も決めてなかったの?」


「おう」


拓海は悪びれもなく頷いた。


「決めてねぇ」


「威張るところじゃないよね?」


「飯なんて現地調達だろ、バカ。美味そうな匂いする方向に歩けば大体何とかなる」


「昨日それで三十分迷ったよね?」


「迷ったな」


「認めるんだ」


「最終的に美味かったから勝ちだろ」


「そういう問題かなぁ」


文香は笑った。


本当に計画性がない。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、拓海と一緒にいると、予定通りに進まないことさえ楽しくなる。


彼はいつもそうだった。

大雑把で。

声が大きくて。

すぐ「バカ」と言って。


でも、文香が少し寒そうにすれば黙って上着をかけてくる。

歩く速度も、いつの間にか文香に合わせている。

本人はたぶん気付いていない。


そういうところが、好きだった。


湖の水面は春の光を受けてきらきらと揺れていた。

遊覧船に乗ると、風が思ったより冷たくて、文香は肩をすくめた。


「寒い?」


拓海が覗き込む。


「少しだけ」


「ほら」


そう言って、当然のように自分のマフラーを外して文香の首に巻く。


巻き方は雑だった。


けれど、温かかった。


「ありがとう」


「おう」


拓海は少し照れたように視線を逸らす。

文香はその横顔を見て、また少し笑った。


パブでは、信じられないほど大きなフィッシュ&チップスが出てきた。

拓海は嬉しそうに目を輝かせ、文香はその量を見て一瞬固まった。


「これ、二人分?」


「一人分だろ」


「嘘でしょ」


「イギリスの知性は胃袋に宿るんだよ、バカ」


「絶対違うと思う」


写真もたくさん撮った。


湖を背景にした写真。

パブの料理。

道端に咲いていた水仙。

遊覧船で風に煽られた拓海のひどい顔。

それを見て笑い転げる文香。


何枚も。

何枚も。


スマートフォンのフォルダが、二人の笑顔で埋まっていく。


どこにでもいる恋人たちの休日だった。

特別な事件なんて何もない。

大きな告白もない。


ただ、手を繋いで歩いて、同じものを見て、同じものを食べて、くだらないことで笑う。


ありふれていて。


だからこそ、とても幸せだった。


夕方。


湖の向こうへ日が沈んでいく。

オレンジ色の光が水面に伸びて、丘の影がゆっくり濃くなっていく。


文香は拓海の隣に立ったまま、その景色を眺めていた。


「来年も来たいね」


何気なく、そう言った。

拓海は少しだけ考えるように空を見た。


「あー、どうだろうな」


「え?」


「いや、来年は四年だしさ。色々忙しいかもなって」


「そっか」


「でも来られたら来ようぜ」


「うん」


会話はそこで終わった。


拓海に深い意味はなかったのだと思う。

文香も、その時は特に気にしなかった。


ただ、ほんの少しだけ。


来年、という言葉が思ったより簡単ではないのかもしれないと感じた。


その夜。


二人は古い石造りのコテージに泊まった。


部屋は小さかったが、窓から湖が見えた。

暖炉には火が入り、木の床は少し軋む。

古い建物特有の、石と木と布の匂いがした。


ベッドに入ると、昼間歩き回った疲れが一気に押し寄せてきた。


文香は拓海の胸に頭を預ける。


耳元で、彼の心臓の音が聞こえた。


ゆっくりで。

大きくて。

妙に安心する音だった。


「ねぇ」


「んー?」


「卒業したら、どうするの?」


それは、ずっと前から聞こうと思っていた問いだった。


けれど、口にしてみると驚くほど自然だった。


恋人同士なら、一度くらいするような会話。


将来の話。


拓海は眠そうに目を開けた。


「卒業したら?」


「うん」


「どうするって言われてもなぁ」


彼の大きな手が、文香の髪を不器用に撫でる。


「まだ一年あるし」


「うん」


「でも、警察官にはなりたいな」


「警察官」


「親父もいるしさ。俺のおやじ刑事なんだ。」


拓海は少し笑った。


その笑い方は、文香が普段見るものとは少し違った。

懐かしい場所を思い出しているような顔。

ここではないどこかへ、もう半分帰っているような顔。


「まぁ、普通に日本かな」


さらりと。

本当に、何でもないことのように。

拓海はそう言った。


文香は瞬きをした。


”日本かな”。


たった、それだけの言葉だった。


でも、その言葉は思った以上に重かった。


迷いがなかった。

躊躇もなかった。

拓海にとってそれは、選択肢というより、自然な帰り道だったのだ。


イギリスは大切な場所。

学園都市も楽しい場所。

文香との時間も、きっと本物。


それでも彼の未来の先には、最初から日本があった。


東京。

千代田区。

父親。

道場。

警察官。


文香がまだ一度も見たことのない場所が、拓海の声の中では、

はっきりした輪郭を持って存在していた。


ああ。

この人は、いつか帰るつもりなんだ。


初めて、そう思った。


拓海に悪気はない。

隠していたわけでもない。

たぶん、聞かれたから答えただけだ。


そして文香自身も、責めたいわけではなかった。


ただ。

自分の未来とは、少し違う方向を向いているのだと、初めて気付いてしまった。


私は、卒業したらどうしたいんだろう。


答えはもう、心のどこかにあった。


イギリスに残りたい。

もっと学びたい。

今年から始まる研究室で、もっと専門的なことを勉強したい。

この国で働いてみたい。

自分の力で、この街に根を下ろしてみたい。


留学を始めた頃は、そんなことまで考えていなかった。


でも、半年経って、世界は少しずつ変わった。


不安だった街は、少しずつ居場所になった。

異国だった場所は、少しずつ未来になった。


”もし拓海も同じ未来を見ているなら”。


そう思っていた。

そうだったらいいなと、どこかで願っていた。


けれど。


違うのかもしれない。


「文香?」


拓海の声がした。


「どうした?」


文香は顔を上げた。


拓海が心配そうに覗き込んでいる。

その顔を見たら、胸の奥に生まれた小さな違和感を言葉にすることが急に怖くなった。


”今言うことではない”。


そう思った。


「ううん」


文香は微笑んだ。


「なんでもない」


「そうか?」


「うん」


そして、少しだけ彼に身を寄せた。


まだ一年ある。

まだ先の話だ。

今はまだ。

この温かさが好きだった。


翌日。


帰りの列車は、昼下がりの光の中をゆっくり走っていた。


窓の外には、英国の穏やかな田園風景が流れていく。


緑の丘。

石造りの家。

遠くに見える羊の群れ。


文香は窓にもたれ、スマートフォンの写真を見返していた。


遊覧船で笑う拓海。

パブで巨大な皿を前に得意げな拓海。

風で髪がぐちゃぐちゃになっている拓海。


どれも楽しかった。

どれも幸せだった。


隣では、その拓海本人が眠っている。


「あー、四年になったら課題増えるんだろうなぁ……」


そうぼやいた数分後には、もう寝息を立てていた。


本当に自由な人だ。

本当に、好きな人だ。


文香はそっと彼の肩に上着をかけた。

それから、また窓の外を見る。


旅行は楽しかった。

文句なしに楽しかった。


だからこそ。


昨夜の言葉だけが、静かに胸の奥に残っていた。


―普通に日本かな。


それは別れの予感ではない。


不満でもない。


喧嘩でもない。


ただ、初めて見つけてしまった未来の小さなズレだった。


文香は眠っている拓海の横顔を見る。


大きくて、少し子供っぽくて、無防備で、愛おしい。

この人のことが好きだ。

本当に好きだ。


だから。

だからこそ。

いつかこの人が、自分の知らない場所へ帰っていくのかもしれないという想像が、

少しだけ怖かった。


列車は静かに学園都市へ向かう。

春は始まったばかりだった。

二人の関係も、まだ何も壊れていない。

むしろ今は、どこから見ても幸せな恋人同士だった。


けれど大きな変化ほど、いつだって穏やかな顔をしてやってくる。


この旅行で生まれた小さな違和感が、やがてどんな形で二人の間に沈んでいくのか。


今の文香には、まだ想像もできなかった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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