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第四百四十話 「未来とは、一秒ずつ加算される予定の羅列ではなく、隣にいる大型犬の帰り道を、自らの進路のなかへ無意識に組み込んでしまう現象のことである」という話

拓海はそう言うの自分から言わなさそうだもんねぇ

三月下旬。


学園都市にも、ようやく春の気配が訪れ始めていた。

冬の間は灰色だった街路樹にも、小さな芽が顔を覗かせている。

冷たい風の中にも、どこか柔らかな匂いが混じるようになった。


文香は講義棟から図書館へ続く石畳の道を歩きながら、小さく息を吐いた。


去年の秋。


初めてイギリスへ来た。

初めての海外。

初めての留学。

右も左も分からないまま飛び込んだ異国の生活は、最初の数週間こそ不安だらけだった。


言葉。

文化。

食事。

距離感。


日本では当たり前だったものが何一つ当たり前ではない環境。


あの頃は毎日が手探りだった。

けれど、今は違う。


行きつけのカフェがある。

図書館のお気に入りの席もある。

教授たちの癖も分かる。

顔見知りも増えた。

この街はもう、”完全な異国ではなかった”。


そして。

佐伯拓海とも出会った。


思い返せば、本当に不思議な人だった。


初対面から距離感がおかしい。

やたらと声が大きい。

初対面なのに神保町の話で盛り上がる。


なのに、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、一緒にいると楽しかった。


拓海はいつも真っ直ぐだった。

良くも悪くも裏表がない。

思ったことは口に出るし、困っている人を見れば放っておけない。

優しいのに器用ではない。

気遣いができるのに、本人は気遣いをしている自覚がない。


そんなところが、少しずつ好きになった。


気が付けば、一緒にいる時間が増えていた。

付き合い始めるまで、それほど時間はかからなかった。


クリスマスも。

年末年始も。

全部、彼と一緒だった。


思い返すだけで自然と笑みがこぼれる。


あの大きな背中。

騒がしい声。

「バカ」が口癖みたいな話し方。


少し不器用で、でもどこか温かい優しさ。


全部ひっくるめて好きだった。


本当に。

心から好きだった。


文香はスマートフォンを取り出した。


昨日届いたメッセージを開く。


【拓海:

春休みどっか行こうぜ!!】


相変わらずだった。


場所も決めていない。

日程も決めていない。

予算も決めていない。

計画性という概念をどこかへ置いてきたような誘い方だった。


思わず笑ってしまう。


「本当に適当なんだから……」


小さく呟きながら画面を閉じた。


一年は早い。

もうすぐ学年が終わる。

拓海は四年生になる。


私は二年生になる。

時間は確実に進んでいる。


今年から研究室も始まる。

来週には顔合わせもあるらしい。


どんな人たちがいるんだろう。

どんな研究をするんだろう。


少しだけ緊張する。

でも、それ以上に楽しみだった。


最近はそんなことを考える時間が増えた。


勉強のこと。

将来のこと。

卒業後のこと。


そして、ふと。

文香の足が止まった。


そういえば。


”拓海は卒業したらどうするんだろう”


今まで深く考えたことがなかった。


付き合い始めた頃は、未来なんて遠い話だった。

目の前の毎日が楽しくて、それで十分だった。


でも今は違う。

彼は春から四年生だ。

卒業が現実味を帯び始める。


その先の進路も。

仕事も。

生活も。

少しずつ形を持ち始める。


彼はどうするんだろう。


このままイギリスに残るのだろうか。

それとも日本へ帰るのだろうか。


そういえば、ちゃんと聞いたことがなかった。


ルームメイトのエドワードさんは大きな財団の関係者だと聞く。


拓海も卒業後は、そのまま財団関係の仕事をするのかもしれない。


もしそうなら。


少し嬉しい。


私は卒業したら、このままイギリスで働きたいと思っている。


せっかく手に入れた環境だ。


もっと勉強したい。

もっと色々な人と出会いたい。

もっと広い世界を見てみたい。

この街で生きてみたい。


もし。


拓海も同じ未来を見ているなら。


それは、とても嬉しいことだと思った。


そして同時に。


ほんの小さな疑問が胸をよぎる。


もし、違ったら。


もし彼の未来が、最初から日本に向いていたとしたら。

もし彼にとってイギリスが通過点でしかなかったとしたら。


春の風が吹く。


その考えは一瞬だけ胸の奥をかすめた。


けれど文香は首を振った。


まだ先の話だ。

今はまだ。


春休みの旅行の方が大事だった。

研究室の顔合わせの方が楽しみだった。


未来は未来だ。


今決めることではない。


文香はスマートフォンをポケットへしまい、再び歩き出した。


春の日差しは穏やかだった。


研究室。


新しい出会い。

新しい一年。

まだ何も始まっていない。


だからこそ、未来はどこまでも明るく見えた。


その扉の向こうに、自分の人生を少しだけ違う方向へ押し出す出会いが待っていることを、

この時の文香はまだ知らなかった。


春は静かに始まる。


そして大きな変化ほど、いつだって穏やかな顔をしてやってくるのだった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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