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第四百三十九話 「再定義とは、失われた権利を取り戻すための闘争ではなく、自らの致命的な敗北(愛)を知った上で、それでも隣に居続けるための最も強固な檻(友情)を、自ら鋳造し直す現象のことである」という話

そりゃそうなるよねぇ

一月上旬。

新年の喧騒がようやく遠ざかり、学園都市には冬の冷えた静寂が戻ってきていた。


年末年始の浮かれた空気は薄れ、講義棟の廊下にも、図書館の閲覧室にも、

学生たちの現実的なため息が戻り始めている。


休暇は終わる。

課題は戻る。

日常は再起動する。


それは、佐伯拓海にとっても同じだった。

そして、エドワード・ハミルトンにとっても。


別邸の書斎。


暖炉の火は、年末の夜よりも幾分か静かだった。

デスクの上には、年明け早々から積み上がった書類が並んでいる。


財団の報告書。

投資案件の再確認。

学園都市関連の調整資料。


それらを淡々と処理しながら、エドワードは、自らの内側で年末から居座り続けている

ひとつの結論を、極めて冷静に見つめていた。


『私は、佐伯拓海を愛している』


その言葉は、もう逃げ場のない事実として、彼の中に定着していた。


認めた。

認めてしまった。


年末の夜。

拓海が文香の名前を口にするたびに胸が軋んだ理由。

拓海が満ち足りた顔で笑うたびに、どうしようもなく苦しくなった理由。


文香が嫌いなわけではない。

拓海が幸せなのが嫌なわけでもない。


ただ、その幸せの中心に自分がいなかったこと。


自分が与えたかったものを、別の誰かが、あまりにも自然に拓海へ与えていたこと。

その事実に、自分は打ちのめされたのだ。


そこまでは理解した。

だが。

理解したからといって、世界が変わるわけではない。


「……私は、拓海を愛している」


誰もいない書斎で、エドワードは一度だけその言葉を口にした。


驚くほど静かな声だった。


告白ではない。

祈りでもない。

ただの確認だった。


ハミルトンの法における、事実の登録。


エドワードはペンを置き、椅子の背にもたれた。


そして、ほんの僅かに目を伏せる。


「——だから何だ」


次に出てきた言葉は、それだった。


愛している。

だから何だ。


その感情が存在するからといって、拓海の幸福を壊していい理由にはならない。

拓海が自分の意思で選んだ相手を、ハミルトンの財力で遠ざけていい理由にもならない。

彼の恋を、彼の時間を、彼の笑顔を、自分の欲望のために奪っていい免罪符にもならない。


エドワードには、それができる。

できてしまう。


金もある。

権力もある。

人脈もある。


理屈を組み立て、環境を整え、偶然を装い、誰にも気付かれないまま文香という存在を

拓海の生活圏から遠ざけることなど、ハミルトンのシステムを使えば不可能ではない。


だが。

それをした瞬間、自分は拓海の隣にいる資格を完全に失う。


拓海が笑わなくなる。

あるいは笑ったとしても、それはもう、自分が見たかった笑顔ではなくなる。


ならば、答えは最初から一つしかなかった。


「私は、何もしない」


エドワードは静かに言った。


それは敗北宣言ではなかった。

諦めでもなかった。

むしろ、逆だった。


自分が何を望んでいるのかを知った上で、それでも拓海の人生を壊さないと決めるための、

最も冷徹な再定義だった。


恋人にはならない。

告白もしない。

この感情を拓海に渡すことはない。


生涯、口にしない。

墓場まで持っていく。


だが。

だからといって、離れるつもりもなかった。


恋人になれないからといって、親友の座を手放す理由にはならない。

拓海の人生の中心に立てないからといって、その隣から消える必要もない。


むしろ逆だ。

この感情を知ったからこそ。

自分は、誰よりも強固に、誰よりも冷徹に、誰よりも執念深く、

佐伯拓海の「親友」で居続けなければならない。


友情。

相棒。

腐れ縁。

保護者。


どれも嘘だった。

だが、嘘だからこそ使える。


一度壊れた言葉なら、もう一度鋳造し直せばいい。


恋を隠すための仮面ではない。

愛を捨てるための言い訳でもない。

愛していると知った上で、それでも拓海の隣に居続けるための、最も強固な檻として。

「親友」という名の席を、もう一度、自分の手で作り直す。


その時だった。


廊下の向こうから足音がした。


乱暴で、遠慮がなく、相変わらず騒がしい足音。

次の瞬間、リビング側の扉が勢いよく開いた。


「おいエド、バカ!!」


佐伯拓海が、いつも通りの声で書斎に顔を出した。


「冬休み明け早々、数的処理の課題多すぎだろ! 知性の燃費が最悪だぞ、バカ!!」


「君の知性の燃費が良かった時期を、私は知らないが」


「うるせぇよ!!」


拓海はずかずかと書斎へ入り、当然のようにソファへ腰を下ろした。


その動きが、あまりにも自然だった。

ここが自分の居場所だと疑っていない。

エドワードの隣に座ることに、何の躊躇もない。


その無防備さが、どうしようもなく愛おしく、そして残酷だった。


「でさ、文香が今度の講義のノート貸してくれるって言うんだよ。マジ助かるよな。あいつ字綺麗だし、まとめ方も上手いし——」


「却下だ、タクミ」


エドワードは即答した。

拓海が目を丸くする。


「は?」


「却下だ」


「なんでだよ!」


「君のガバガバな脳細胞に、外部個体の運筆ログをこれ以上混入させることは、

ハミルトンの管理下において許可できない」


「文香のノートまで管理対象に入れるな、バカァ!!」


「新学期からも、君の課題は私が見る」


「何でお前が決めんだよ!」


「なぜなら、君は放っておくと課題の存在そのものを三日で忘れるからだ」


「忘れねぇよ!」


「昨日、冬休み課題を暖炉の横に置いたまま寝たのは誰だ」


「……俺だな」


「ほら、席に着け」


「くそっ、正論で殴るな、バカちんが!!」


拓海は文句を言いながらも、結局ソファから立ち上がり、エドワードの向かいに座った。


鞄からノートを出し、ペンを握る。


その一連の動きが、エドワードには痛いほど馴染んでいた。


文香の隣で笑う拓海。

文香の名前を幸せそうに呼ぶ拓海。

そして今、当然のように自分の前で課題を広げる拓海。


どれも”同じ佐伯拓海”だった。


どれも本物だった。


だからこそ、エドワードは理解している。


自分が奪いたいのは、文香の席ではない。

自分が譲りたくないのは、恋人という立場でもない。


”この席”だ。


拓海が何の疑いもなく帰ってくる、この場所。

くだらない愚痴を言い、課題を投げ出し、エドワードをバカと呼び時折眠そうに欠伸をする、この日常。


恋人になれなくてもいい。

拓海の幸福の中心にいられなくてもいい。

だが、この日常の隣席だけは、絶対に譲らない。


文香にも。

将来現れる誰かにも。

拓海自身にさえ、簡単には明け渡さない。


「タクミ」


「なんだよ」


「その問題は、三行目から間違っている」


「早ぇよ!! まだ書き始めただけだぞ!!」


「だから間違っている」


「未来予知すんな!!」


「君の計算ミスは予知ではなく統計だ」


「腹立つな、お前!!」


拓海が怒鳴る。


エドワードは淡々と赤ペンを取る。


いつも通りだった。

本当に、いつも通り。


だが、エドワードの内側では、すでにすべてが変わっていた。


この小言は、もうただの管理ではない。

この過保護は、もうただの保護ではない。


この親友という立場は、もう無邪気な友情ではない。


それでも。


いや。

それを知ったからこそ。


エドワードは、完璧な親友であり続けることを選んだ。


「エド」


「何だ」


「文香のノート、ちょっとだけ見てもいいだろ」


「駄目だ」


「ケチ!」


「君の知性を守っている」


「俺の知性を勝手に守るな!」


拓海はいつものように騒いでいる。


何も知らない。


これからも、おそらく一生知らない。


目の前の男がどれほどの感情を飲み込み、どれほど強固な覚悟で、

自分の隣に居座ることを決めたのかなど、この野生の大型犬は永遠に気付かない。


それでいい。


エドワードはそう思った。


知らなくていい。

君はただ、笑っていればいい。

文香の隣で笑ってもいい。

誰かの隣で満ち足りてもいい。

日本へ帰り、警察官になり、別の人生を歩いてもいい。


だが。

君が振り返った時、そこにある席だけは空けておく。

君が困った時、戻れる場所だけは残しておく。

君が私を「エド」と呼ぶ限り、私は君の親友であり続ける。


どれほど醜い感情を胸に抱えていようと。

どれほど利己的な願いを押し殺していようと。

その席だけは、世界中の誰にも譲らない。


その喧騒の背後。


ジョージは、壁にもたれながら二人を見ていた。


いつもの光景だった。


サエキが騒ぎ、ハミルトン様が小言を言い、ノートに赤が入る。


何十回も見てきた。

何百回も撮ってきた。


だが今日だけは、少し違う。


ハミルトン様の表情はいつも通りだ。


声もいつも通り。


仕草も。

言葉も。

何も変わっていない。


けれど、眼鏡の奥の灰色だけが違っていた。


あれは、諦めた人間の目ではない。

負けを認めた人間の目でもない。

自分の敗北を完全に理解した上で、それでも戦場から降りる気のない人間の目だった。


「……本当に、タチが悪いね」


ジョージがぽつりと呟く。


エドワードは顔を上げない。


「何か言ったか、ジョージ」


「いいえ?」


ジョージは笑った。


「ただ、ハミルトン様はやっぱりハミルトン様だなと思っただけさ」


「不愉快な評価だね」


「褒めてるんだけどな」


「君の褒め言葉は信用できない」


「あははwそうかもね」


拓海が顔を上げる。


「お前ら何の話してんだ?」


「君の知性が危険水域にあるという話だ」


「また俺かよ!!」


「ほら、手が止まっている」


「はいはい、やりますよ、バカ!!」


また騒がしくなる。


冬の別邸に、拓海の声が戻る。


エドワードは赤ペンを走らせながら、ほんの僅かに口角を上げた。


これでいい。

これがいい。

これしか選ばない。


自分は佐伯拓海を愛している。

だから何もしない。


だからこそ、隣に居続ける。


それが、エドワード・ハミルトンが自らに課した、最も静かで、最も強固で、

最も救いのない再定義だった。


■ジョージの機密ログ(一月上旬・別邸:魔王の再定義と、強固な親友の始まり編)


一月上旬。


新学期の別邸。


僕は、ハミルトン様がサエキの『文香ノート』をいつも通りの小言で封殺し、

何事もなかったかのように課題を見始めるのを観測した。


表面上は、いつもと何も変わらない。


サエキは騒ぐ。

ハミルトン様は小言を言う。

赤ペンは走る。


ジョージは観測する。


だが、今日のハミルトン様は、確かに違っていた。


絶望する段階は終わった。

自覚して、諦めて、壊れる段階も終わった。


あの人は、自分がサエキを愛しているという致命的な事実を飲み込んだ上で、

それを『一生サエキの親友であり続けるためのロジック』として組み直した。


正直、絶望してくれていた方がまだ可愛げがあったと思う。


だってこれは、かなりタチが悪い。


恋人の席は求めない。

告白もしない。

サエキの幸せは壊さない。


その代わり。


「親友の席だけは、絶対に譲らない。」


サエキ。


君は本当に、世界一強固な嘘に守られた猛獣だね。


君が何も知らずに「ノート没収するな」と騒いでいる間、君の相棒は君への『愛している』という絶望を、世界で一番贅沢な日常として飲み込み直していたんだよ。


ハミルトン様。


君は今、真顔でサエキの運筆ログを検閲しながら、本日最高の、

そして一番厄介な肌のツヤでこう決めたんだね。


タクミ。


君の幸せの中心に私はいない。


けれど、君の親友の席だけは、世界中の誰にも、文香にさえも、絶対に譲らない。


嫉妬を越え、諦めを知り、その上でさらに執着を再構築した魔王。

僕が長年観測してきた中でも、これはかなり上位に入る危険物件だ。


経過観察を継続する。

もちろん、最高画質で。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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