第四百三十八話 「自覚とは、未知の感情を理解することではなく、ずっと隣にいた大型犬が、既に自分の手の届かない場所へ歩き出していた事実を認める現象のことである」という話
今頃気が付いたんかい
十二月三十一日、深夜。
世界中が新しい年の幕開けを待つ喧騒に浮き足立つ中、学園都市別邸の書斎だけは、
まるで時間から取り残されたように静まり返っていた。
窓の外には、薄く雪を被った庭が広がっている。
遠くの街では、どこかの学生たちが早すぎるカウントダウンに騒いでいるらしい。
時折、笑い声のようなものが風に乗って届いた。
だがこの部屋にあるのは、暖炉の薪が小さく爆ぜる音と、古い時計が秒を刻む音だけだった。
エドワード・ハミルトンは、書斎の椅子に深く腰を下ろしたまま、デスクの上を見つめていた。
そこには、一枚の栞が置かれている。
神保町の古本屋のものだという。
和紙で作られた、少し風変わりな栞だった。
別に高価なものではない。
ハミルトンの財力をもってすれば、似たようなものどころか、同じ店ごと買い取ることも容易い。
だが、それには意味がない。
それは、文香が拓海に贈ったものだった。
あるいは、拓海が文香のために選び、そして今、文香との時間の余韻として
この書斎に置き忘れていったものだった。
つい先ほどまで、拓海はここにいた。
その栞を宝物のように指先でなぞりながら、スマートフォン越しに文香と新年の挨拶を交わしていた。
「文香、そっち寒くねぇか?」
「明日、初詣行くんだろ?」
「おう、ちゃんと起きるって」
「バカ、寝坊しねぇよ」
そんな、どうでもいい会話。
本当に、どうでもいい会話だった。
けれど拓海は、その一つ一つを心底楽しそうに口にしていた。
液晶の向こうから彼女の声が聞こえるたび、拓海の表情は緩んだ。
笑う。
黙る。
また笑う。
その顔は、エドワードが何度も見てきた拓海の笑顔とは違っていた。
ラグビーで勝った時の豪快な笑顔でもない。
くだらない冗談を言っている時の、悪戯っぽい笑顔でもない。
エドワードを「バカ」と呼んで噛みついてくる時の、いつもの騒がしい表情でもない。
もっと柔らかく。
もっと無防備で。
満たされている人間だけが浮かべる顔だった。
拓海は電話を切ったあとも、しばらく栞を眺めていた。
それから、満足そうに伸びをして、何でもないことのように言った。
「あー、クソ。明日も文香と初詣行くから寝るわ。おやすみ、エド」
エドワードは、何も言わなかった。
もう「その話は飽きた」とも言わなかった。
知性の燃費がどうだとも。
文香という名前を何回口にしたとも。
蕎麦粉を買い占めるとも。
何も言わなかった。
ただ、去っていく拓海の背中を見ていた。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
書斎には再び、暖炉の音だけが残った。
エドワードは、デスクの上の栞を見つめる。
なぜ、これほどまでに腹が立つのか。
なぜ、これほどまでに胸の奥が苦しいのか。
なぜ、これほどまでに。
”寂しい”のか……
長い間、その正体が分からなかった。
いや、分からないふりをしていた。
”十四歳の夏”。
学園の門を叩いたばかりの佐伯拓海は、すべてが粗雑で、危なっかしく、
そしてやかましい少年だった。
英語の文法は怪しい。
制服のネクタイはいつも少し曲がっている。
数的処理の課題を出せば、白紙に近い答案を堂々と提出してくる。
そのくせ、困っている人間を見れば放っておけない。
自分が巻き込まれることなど考えない。
悪意に気付かず、危険を危険だと認識せず、泥を抱えても笑う。
そんな男だった。
エドワードは、それを「保護すべき対象」だと思っていた。
そう名付けた。
危ういから守る。
無防備だから管理する。
愚かだから導く。
ハミルトンの法に照らせば、サエキ拓海という個体はあまりにも非合理で、
あまりにも危険で、あまりにも目が離せない存在だった。
だから隣に置いた。
だから食事を管理した。
だから課題を見た。
だから帰る場所を用意した。
だから、別邸という檻を整えた。
それは責任だった。
友情だった。
十年を共に過ごした相棒への当然の配慮だった。
そう思っていた。
そう信じていた。
そう信じていなければならなかった。
けれど。
文香が現れた。
彼女が何かを奪ったわけではない。
彼女が何かを壊したわけでもない。
むしろ彼女は、拓海を大切にしている。
拓海のまとまりのない話を聞く。
日本の話で笑う。
本の話をする。
彼の不器用な優しさを、面倒だと切り捨てずに受け取る。
そして拓海は、彼女の隣で笑う。
”満ち足りた顔”で。
自分の意思で彼女を選び、自分の足で彼女の方へ歩き、自分の声で彼女の名前を呼ぶ。
その姿は、エドワードがどれほど知性を尽くしても、どれほど財力を注ぎ込んでも、
決して作れなかったものだった。
文香が嫌いなわけではない。
むしろ、好ましいとすら思っている。
君を笑顔にしてくれる。
君の話を聞いてくれる。
君の年末を、君の明日を、君のささやかな日常を、あれほど幸福なものにしてくれる。
それは喜ばしいことだ。
本当に。
心から。
喜ばしい。
だからこそ、困っている。
その笑顔を見るたびに、胸の奥が軋む。
拓海が「文香」と口にするたびに、呼吸の奥に小さな傷が増えていく。
拓海が幸せそうに笑えば笑うほど、エドワードは自分が
どれほど手の届かない場所に立たされているのかを思い知らされる。
何度も考えた。
文香が現れなければ良かったのか。
違う。
拓海が恋などしなければ良かったのか。
違う。
拓海が幸せにならなければ良かったのか。
そんなはずがない。
自分は、その笑顔をずっと見たかった。
拓海が傷付かず、飢えず、怯えず、世界に噛みつきながらも笑っていることを、ずっと望んでいた。
ならば、なぜ苦しい。
なぜこんなにも、許せない。
エドワードは、ようやく理解した。
私は、君が幸せなのが嫌なのではない。
君を幸せにしているのが、私ではないことが嫌だったのだ。
その結論は、あまりにも単純で、あまりにも醜く、そして逃げ場がなかった。
私が、拓海を笑顔にしたかった。
私が、あのガバガバな魂に、満ち足りた幸福を与えたかった。
私のことを、あのような顔で、幸せそうに、誰かへ語ってほしかった。
「文香がさ」と言う時のあの熱で。
「文香と」と続ける時のあの声で。
「文香」と名前を呼ぶ時の、あの無防備な温度で。
私のことを。
私の名前を。
私との日々を。
君に語ってほしかった。
エドワードは、デスクの上の栞から視線を外せなかった。
たった一枚の紙片。
けれどそこには、ハミルトンの法では買えないものが宿っている。
拓海が自分の意思で大切にしたもの。
拓海が自分の幸せの証として触れていたもの。
自分ではない誰かと結ばれた時間の、確かな残滓。
私は、文香に負けたのではない。
恋人という立場に負けたのでもない。
佐伯拓海の人生の、幸福の中心に自分がいないという、その残酷な現実に叩きのめされたのだ。
認めたくなかった。
認めてしまえば、これまでの十年間がすべて姿を変える。
保護。
責任。
友情。
相棒。
そう名付けてきたものが、どれほど都合の良い言葉だったのかを知ることになる。
「私は、君を守りたかった」
違う。
「私は、君を幸せにしたかった」
それも違う。
「私は、君に幸せでいてほしかった」
そんな美しい利他主義ではない。
もっと利己的で。
もっと醜く。
もっと個人的な衝動。
私は、ただ。
”君の隣にいたかった”のだ。
その言葉は、誰にも届かなかった。
暖炉の薪が小さく爆ぜる。
時計の針が、新しい年へ向かって進んでいく。
エドワードは静かに眼鏡を外した。
世界中が年の終わりを祝っている。
サエキ拓海は、明日、文香と初詣へ行く。
その事実が、どうしようもなく嬉しくて。
どうしようもなく苦しかった。
エドワードは目を閉じた。
友情という名の檻は、今夜、内側から静かに融けた。
そこに残っていたのは、保護でも責任でもない。
ただ一人の人間が、もう一人の人間の隣にいたかったという、
あまりにも単純で、あまりにも救いのない願いだった。
■ジョージの機密ログ(十二月三十一日・深夜:魔王の沈黙と、自覚の境界線編)
十二月末。
深夜の別邸書斎。
ハミルトン様は本日、サエキのノロケ話を遮らなかった。
飽きたとも言わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、サエキが部屋に戻ったあと、一時間以上、暖炉の火だけを見つめていた。
長年の観測経験から断言できる。
これは、これまでの所有欲や過保護とはまったく違う。
極めて危険で、極めて静かな兆候である。
ハミルトン様はどうやら、自分が何を失いたくなかったのかを理解し始めた。
そして同時に。
自分がずっと「親友」と呼んできたものの奥に、
”別の名前を持つ感情が眠っていたこと”にも気付いてしまったらしい。
普段なら、ここで僕はカメラを構える。
タイトルをつける。
面白がる。
けれど、今夜だけはやめておく。
これは笑い話ではない。
ハミルトン様。
君の十年の嘘が、今夜、静かに時間切れを迎えた。
そしてたぶん。
ここからが本当の地獄だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




