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第四百三十七話 「年末年始とは、休息期間ではなく、恋愛脳化した大型犬の終わらないノロケにより、魔王の知性が半ギレへ進化する現象のことである」という話

拓海君お花畑

十二月下旬。

クリスマスが終わり、世界が年末年始の厳かな空気へと移り変わり始めた頃。

ロンドンの街には薄い雪が降り、学園都市の石畳も白く縁取られていた。


誰もが一年の終わりを意識し始める季節。


そして学園都市別邸では、極めて深刻な問題が発生していた。

それは金融危機でもなければ国際情勢の悪化でもない。

ましてやハミルトン財団の経営問題でもない。


もっと根深く。

もっと厄介で。

もっと逃げ場がなかった。


佐伯拓海が。

完全に恋愛脳になっていたのである。


「おいエド、聞けよバカ!!」


夕食後。


ダイニングテーブルで年末の決算資料を確認していたエドワードは、

その第一声だけで静かに目を閉じた。


”またか”。


と。

心の底から思った。


ジョージはその様子を見て、無言で手帳を開いた。

観測開始である。


「文香がさ!」


始まった。


「こないだクリスマスの日にさ、『拓海さんと一緒に日本の年越しそば食べたいな』

とか言うんだぞ!?」


「…………」


「だからアジアスーパー行ったんだけどよ! あいつ蕎麦粉まで調べ始めてさ!」


「…………」


「しかも本読んでる時の横顔が――」


「…………」


「あと文香って意外と――」


「…………」


ジョージは静かにページをめくった。


本日十七回目。


”文香”。


記録更新中。


一方エドワードは黙々と資料を読んでいた。


いや。


正確には”読もうとしていた”。


欧州支部の事業報告書。

来年度予算案。

新規投資計画。


本来ならば今頃、知性の全リソースを年末決算へ投入しているはずだった。


しかし。


ページをめくるたびに。

文香。


資料を開けば。

文香。


数字を見れば。

文香。


気付けば三ページ前から何も頭に入っていなかった。


原因は全て目の前の大型犬である。


「文香がな!」


「文香ってさ!」


「文香と今度――」


ペンが止まった。

ピタリと。

本当に音もなく。


ジョージだけがその異変に気付いた。


”来た”。


と。


観測者としての本能が告げていた。


ついに来た。

数ヶ月分の蓄積ダメージが。

今。

爆発する。


「……タクミ」


声は静かだった。


恐ろしいほどに静かだった。

拓海は笑顔のまま振り返る。


「なんだ?」


エドワードは数秒沈黙した。

その間にも拓海は次の文香エピソードを用意している。


ジョージには分かった。


限界だ。

完全に限界だ。


「君は今日、その名前を何回口にした」


「は?」


「文香だ」


拓海は本気で考えた。


三秒。

五秒。

七秒。

そして。


「知らねぇ」


エドワードは静かに頷いた。


「私は数えた」


「なんで?」


「二十三回だ」


「数えてたのかよ!?」


「数えていた」


「暇か!?」


「暇ではない」


即答だった。


「私は今、欧州支部の予算案を確認している」


「じゃあなんで数えてんだよ!」


「気付いたら数えていた」


「怖ぇよ!!」


ジョージが吹いた。


紅茶が危険だった。


ギリギリ耐えた。


「タクミ」


エドワードは眼鏡を外した。

その仕草だけで空気が変わる。


「私はここ数週間、君の口から『文香』という単語を平均して一日三十回以上聞かされている」


「へぇ」


「へぇ、ではない」


「なんで怒ってんだよ」


「怒っていない」


怒っていた。

極めて怒っていた。

だが本人は認めなかった。


「私はただ事実を述べているだけだ」


「事実?」


「朝食で文香」


「言ったな」


「昼に文香」


「言ったな」


「夕方に文香」


「言ったな」


「夜に文香」


「言ったな」


「休日に文香」


「言ったな」


「つまり君の脳内の八割が文香だ」


「なんだその計算」


「ハミルトン式統計学だ」


「信用できねぇ!!」


ジョージはついに壁を向いた。


もう無理だった。

肩が震えている。


ここ数ヶ月。


キス。

外泊。

彼女っていいぞ。

クリスマス。

年越し。


全てを耐え続けてきた魔王が。


今。


静かに。

本当に静かに壊れ始めていた。


「……タクミ」


「なんだ」


エドワードは深く息を吐いた。


そして。

本当に疲れ切った顔で言った。


「私はもうその話は飽きたのだが」


沈黙。


拓海が固まった。


ジョージも固まった。


言った。

ついに言った。


エドワード・ハミルトンが。


”飽きた”と言った。


「……は?」


「飽きた」


「ひどくねぇ!?」


「私はクリスマスの話を先週聞いた」


「おう」


「蕎麦の話を三日前に聞いた」


「おう」


「本の話を昨日聞いた」


「おう」


「そして今また聞いた」


「おう」


「だから飽きた」


「理不尽だろ!!」


「理不尽ではない」


エドワードは即答した。


「私は当主だ」


「知らねぇよ!!」


「年末決算をしている」


「知らねぇよ!!」


「欧州経済も見ている」


「知らねぇよ!!」


「なのに私の脳内に文香が侵略してくるんだ」


「被害妄想だろ!!」


「安全保障上の問題だ」


「違うわ!!」


ジョージは完全に崩れ落ちた。


腹筋が終わった。

もう駄目だった。

笑いすぎて息ができない。


エドワードはなおも真顔だった。


「これ以上その名前を口にするならば、私はロンドン中の蕎麦粉を買い占める」


「やめろ!!」


「年越しはプロテインだ」


「国家権力を私怨に使うな!!」


「私は本気だ」


「怖ぇよ!!」


その夜。


ロンドンは静かだった。

別邸も平和だった。

世界も平和だった。


ただ一人。


恋愛脳の大型犬による終わらないノロケ攻撃によって。

魔王だけが。

静かに。

そして確実に。

限界を突破していたのである。


■ジョージの機密ログ(十二月下旬・別邸:魔王、ついに限界突破する編)


十二月下旬。


サエキは本日、「文香」を二十三回使用した。


ハミルトン様は本日、「もうその話は飽きた」を初めて口にした。


さらに蕎麦粉買い占め計画まで発表した。


長年の観測経験から断言できる。

これは極めて危険な兆候である。


なおサエキ本人は、


「親友に幸せを共有しているだけ」


だと思っている。

極めて平和な年末である。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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