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第四百三十六話 「自覚とは、情報を整理し結論を導き出すプロセスではなく、隣にいたはずの大型犬が「誰かの隣人」として完成された事実を、そのあまりに幸福な笑顔と共に突きつけられる現象のことである」という話

まぁ。うん。生きろエドワードw

九月下旬。

別邸の朝は静かだった。


窓の外では薄い秋の陽射しが芝生を照らし、遠くで鳥が鳴いている。

けれど、その穏やかな朝の空気とは裏腹に、別邸の内部には妙な緊張感が漂っていた。


正確には。


一晩中ほとんど眠らなかった男が一人。

そして、その様子を見守りながら胃薬の必要性を真剣に検討していた男が一人。


エドワード・ハミルトンとジョージである。


昨夜。


エドワードはほとんど書斎から動かなかった。


仕事をしていたわけではない。

資料を読んでいたわけでもない。

ただ静かに椅子へ座り、窓の外を眺めていた。


ジョージも余計なことは言わなかった。


何を言っても意味がないと分かっていたからだ。


そして。


朝。

玄関の扉が開いた。


「ただいまー!」


聞き慣れた声だった。

だが、その響きはいつもより少しだけ軽かった。


少しだけ明るかった。

まるで世界そのものが昨日より優しくなったような声だった。


拓海が帰ってきた。

機嫌が良い。

そんな言葉では足りなかった。

顔色が良い。

そんな話でもない。


全身から満足感が滲み出ている。


自分で選び。

受け入れられ。

大切な相手と時間を過ごした人間だけが持つ、静かな幸福感。


それが隠しようもなく表情に出ていた。


ジョージは思った。


ああ。

終わったな、と。


「エド!」


拓海はリビングを覗き込む。


「お前、起きてたのか?」


「……ああ」


エドワードは新聞から目を上げた。


もちろん一文字も読んでいない。


「お帰り、タクミ」


「ただいま!」


拓海は笑った。

その笑顔は昨夜見たものとよく似ていた。


エドワードは、それを知っていた。

だからこそ見ているのが辛かった。


だが。


拓海はそんなことを知る由もない。


ソファへ腰を下ろし、コーヒーを受け取り、そして満面の笑みで言った。


「なぁ、エド」


「何だ」


「彼女っていいぞ!」


ジョージが紅茶を吹きかけた。


危なかった。

本当に危なかった。


「話は合うし!」


拓海は指を折る。


「一緒にいて楽しいし!」


一本。


「飯は美味いし!」


二本。


「何時間話してても飽きねぇし!」


三本。


「最高だぞ!」


四本。


ジョージは思った。


頼むからもうやめてくれ。

本当に。

主人が死ぬ。


「お前も彼女作れよ!」


拓海は悪意なく言った。


本当に悪意がない。

だからこそ残酷だった。


「顔はいいし」


「……」


「金持ちだし」


「……」


「頭もいいし」


「……」


「なんで作らねぇんだよ」


ジョージは天井を見上げた。


神様。

いるなら今すぐ助けてください。


エドワードは静かだった。


怒らない。

反論もしない。

茶化しもしない。


ただ聞いていた。

拓海の話を。

幸せそうな声を。


それが余計に苦しかった。


「文香さ」


拓海が言う。


その名前に、エドワードの指先が僅かに止まった。


「俺の話、ちゃんと聞いてくれるんだよ」


文香。


「本も好きだしさ」


文香。


「今度また一緒に出掛けるんだ」


文香。

文香。


文香。


名前が自然に会話へ混ざっている。

もう特別な存在ではない。

特別だからこそ、日常へ入り込んでいる。


エドワードは理解した。


先日見たキスよりも。

今朝のこの会話の方が、ずっと重い。


文香は恋人になったのではない。

タクミの日常になったのだ。


それが何より現実的だった。

何より遠かった。


「……そうか」


ようやく出た言葉はそれだけだった。

拓海は嬉しそうに頷く。


「おう!」


その顔が本当に幸せそうで。


エドワードは思わず目を伏せた。


自分はずっと願っていたはずだった。


タクミが幸せであることを。

笑っていることを。

傷付かないことを。


その願いは叶っている。


目の前で。

完璧な形で。


なのに。


どうしてこんなにも寂しいのだろう。

どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。


その答えを、エドワードは知っていた。

知りたくなかっただけだった。


その夜。


別邸は静かだった。


タクミはよく眠っている。


疲れていたのだろう。

廊下の向こうから微かな寝息だけが聞こえてくる。


書斎。


エドワードは一人で座っていた。


灯りは落としている。

窓の外には月だけが見えた。


「……ハミルトン様」


ジョージが顔を出す。


「何だ」


「生きてる?」


「問題ない」


即答だった。


ジョージはため息をつく。


「問題ある顔してるけど」


エドワードは答えなかった。


しばらく沈黙が続く。


やがてジョージは静かに言った。


「サエキ、幸せそうだったね」


エドワードは窓の外を見たまま、小さく笑った。

それは今日初めて見せた、本物の笑みだった。


少しだけ寂しくて。

少しだけ優しくて。

そしてひどく疲れた笑みだった。


「……ああ」


短い返事。


それだけだった。

けれどジョージには十分だった。


エドワードは嫉妬しているわけではない。

怒っているわけでもない。

ただ理解してしまったのだ。


タクミはもう、自分だけの世界では生きていない。


誰かと未来を作り始めている。


その事実を。


そして。

それを止めるつもりが、自分には最初からなかったことも。


窓の外では秋の風が木々を揺らしていた。


季節は少しずつ変わっていく。

人もまた同じだった。


エドワードは静かに目を閉じた。


胸の奥に残る痛みは消えない。


けれど。


それでも願ってしまう。

どうか幸せでいてくれ、と。

それが自分のいない未来だったとしても。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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