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第四百三十五話 「自覚とは、視覚情報の解析によって得られる結論ではなく、唯一無二の隣人が「自らの意思で選んだ背中」を直視し、自らの敗北を静かに受け入れる儀式のことである」という話

どうしようもないよねぇ。。。

九月下旬。

学園都市の夕暮れは、夏の終わりよりもずっと静かだった。

石畳の歩道には長い影が落ち、並木の葉は少しずつ色を変え始めている。


空気はまだ冷たくない。

けれど、確実に季節は動いていた。


その日。

エドワード・ハミルトンは、予定より少しだけ早く仕事を終えた。


財団との会議。

大学との調整。


いくつかの案件を処理し終え、専属の車を降りる。


いつもと変わらない帰り道だった。


本来なら。


だが。

その日だけは違った。


ふと視線を上げた先。

街灯が灯り始めた並木道の向こうに、見慣れた黒髪が見えた。


タクミだった。


そして。

その隣には文香がいた。


二人は肩を並べて歩いていた。


手は繋いでいない。

寄り添っているわけでもない。

ただ歩いているだけだ。


本当に、それだけだった。


なのに。


エドワードは足を止めた。


遠くて会話は聞こえない。

それでも分かる。


タクミは笑っていた。

別邸で笑う時とも違う。

友人たちと騒いでいる時とも違う。


もっと静かで。

もっと柔らかくて。

肩の力が抜けた笑顔だった。


文香も笑っている。


何を話しているのかは分からない。


神保町のカレーかもしれない。

東京の話かもしれない。

本の話かもしれない。


そんなことはどうでもよかった。


大切なのは。

タクミが幸せそうだということだった。


エドワードは、その事実を認めたくなかった。

認めてしまえば、何かが終わる気がした。

だからこれまでずっと、自分に言い聞かせてきた。


若気の至りだ。

ただの興味だ。

一時の感情だ。

そのうち飽きる。

卒業までの寄り道だ。


そうであってほしかった。

そうでなければ困ると思っていた。


だが。

目の前の光景は、その希望を少しずつ剥がしていく。


二人は立ち止まった。


別れ際だった。

文香が何かを言う。


タクミが答える。

少し笑う。


沈黙。


夜の風が木々を揺らした。

落ち葉が一枚、石畳を転がっていく。


誰も急がなかった。

誰も言葉を探さなかった。


その静かな時間が、妙に完成されて見えた。


エドワードは動けなかった。


視線だけが二人を追う。


そして。


タクミが動いた。


ほんの少しだけ。

自然に。

迷うことなく。

文香へ一歩近付いた。


その瞬間。


エドワードは理解した。

理解したくなかったことを。


タクミは流されているわけではない。

誰かに誘われたわけでもない。

押し切られたわけでもない。


”彼自身の意思”だった。

”彼自身が選んだ行動”だった。


唇が触れる。

それは驚くほど短い口付けだった。

街灯の下で交わされた、ほんの数秒の出来事。


だが。


エドワードには、それが永遠のように長く感じられた。


不思議なことに怒りはなかった。

嫉妬とも少し違った。

胸を焼くような衝動もない。


ただ。


静かな喪失感だけがあった。


長い年月をかけて積み上げてきた何かが、音もなく手のひらから零れ落ちていく感覚。

それを止める理由も権利も、自分にはないのだと理解してしまった時の虚しさ。


タクミは幸せそうだった。

それが何より残酷だった。


エドワードは思う。


もし文香が酷い人間だったなら。

もしタクミを傷付ける相手だったなら。


自分はいくらでも介入できた。


財団の力でも。

人脈でも。

金でも。

何でも使えただろう。


だが文香は違う。


礼儀正しく。

穏やかで。

優しく。

タクミが笑う理由になっている。


だから否定できない。

だから排除できない。


”だから苦しい”。


「……あぁ」


気付けば、小さな息が漏れていた。


それがため息だったのか。

諦めだったのか。

エドワード自身にも分からなかった。


ただ一つだけ。


確かなことがあった。


”タクミは自分で選んだ”のだ。


その事実だけが、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。


逃げることも。

見なかったことにすることもできずに。


深夜。

別邸の扉が開く。


「ただいまー」


いつもの声だった。


ラグビーの帰りと同じ。

友人と遊んだ帰りと同じ。

少し疲れていて。

少し機嫌が良くて。

いつも通りの佐伯拓海。


だが。


エドワードだけが知っていた。


今夜の「ただいま」は昨日までとは違う。


今日のタクミは、自分の気持ちを伝えた人間の顔をしている。


それは誇らしいことのはずだった。

親友なら喜ぶべきことだった。

実際、喜ばなければならないと思っている。


だが胸の奥では、どうしようもなく寂しかった。


「……おかえり、タクミ」


声は驚くほど平坦だった。


「おう。あれ、まだ起きてたのか?」


「少し仕事が残っていてね」


「働きすぎだぞ、バーカ」


タクミは笑う。


その笑顔を見ていると、余計に苦しくなった。


以前と何も変わらない。

本当に何も変わらない。


なのに。


自分だけが置いていかれたような気がした。


卒業。

帰国。

就職。

結婚。


これまで漠然とした未来でしかなかったものが、急に輪郭を持ち始める。


それは今日のキスが理由ではない。


”タクミが自分の人生を選び始めた”。


その事実こそが理由だった。


エドワードは新聞を広げる。

文字はほとんど頭に入ってこない。


けれど、それでも視線を落とした。

そうしなければ、自分がどんな顔をしているのか分からなかったからだ。


向かい側ではタクミが紅茶を飲んでいる。


いつも通り。

本当に、いつも通り。


それがどうしようもなく遠かった。


■ジョージの機密ログ(九月下旬・夜の並木道:自覚と喪失編)


九月下旬。


僕は今日、ハミルトン様が初めて「理解してしまう」のを見た。


文香という存在を認めたわけじゃない。

恋愛を認めたわけでもない。

もっと単純なことだ。


サエキが、自分の意思で誰かを選んだ。


それを認めてしまった。

ただそれだけだった。


たぶん今日、ハミルトン様が失ったのは独占欲じゃない。


希望だ。


サエキはずっと隣にいるのだと、どこかで信じていた希望。

そしてそれは、誰かのせいではない。


文香も悪くない。

サエキも悪くない。

だから余計に救いがない。


人生というものは時々、事件よりも静かな形で人を傷付ける。


今日の出来事は、きっとそういう種類のものだった。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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